今朝、明晰夢を見た。
これは夢だとわかっていながら、すごくリアルな世界の中にいるもの。
その内容はあまり詳しく書くと恥ずかしいので、書きませんが(笑)、
少しだけ書いて、ここへ記録しておきます。
夢の中で、昔の、懐かしい会いたい人が出てきて、
姿は変わっていても、夢の中の自分は相手がすぐわかったようで「お久しぶりです」と挨拶をしていました。
場所も、その人に関連する場所で、懐かしいと思って会場に歩いて、つきました。
そこで、どうやら、僕はこれから創作教室の講座を開くようで、
また、どこかと中継で繋がっているというわけのわからない設定。
まわりに光がとにかく綺麗で、いっぱい溢れていて、まるで自分を祝福してくれている気がしました。
その相手とも、中継で、今から話をするんだ、ということでした。
あと、いろいろありましたが、恥ずかしいから、省略。笑
ともかく、夢の中で、五感が研ぎ澄まされていて。
でも、その自分を見ているもう一人の自分もいて、どこかで夢だとわかっているように思いました。
目が覚めてから、ああ、芸能人に見えた、あの人は、ずっと忘れていない、あの人の歳を重ねた姿だとわかりました。
バックには、なぜか宇多田ヒカルの『花束を君に』が流れていた気がします。
ともかく、光がいっぱいで、自分を祝福してくれている感が強くて、戸惑うほどでした。
「やっと、ここまで来た」と何故だか、僕は強く思っているんですね。
なんだかね?
さて、やっと、と思っている夢の自分に対して、現実の僕はダメダメです。笑
ただ、自分の中に強くあるリミッターの存在には気づけました。
それは〈長編小説は書けない&書かないぞリミッター〉です。
ずっと、何年も何十分も、そのリミッターの有無と関係なく、その事実はあったんです。
でも、それは長編だけでなく、短編でも同じはずなんです。
でも、気がつくと、どれだけ「ああ、こんな
書き方をすればいいんだ」とスキルや方法がわかっても、
最初から〈無限の、可能性がある事象へぶっつかるから書けない〉と原因究明しても、
俄然として、受け付けない自分がいるんですね。
ここで、何度か書いているように、詩に対しての僕は、いかなる失敗も恐れないし、
むしろ、失敗作を書き換えた方が多くて入線・入賞してきました。
それは事実だから否定しようがない。
なのに、小説に向かうと、途端に怖気づき、ヘタレます。笑
昨日も、教室へ出す課題短編を推敲してました。
いろいろと、いま、感じている新スキルや感覚も少し試したり働かせてみたりしながら。
ふと、思いました。
本当に、短編と長編は違うんだろうか?
もちろん、量が違う。
それに合わせた内容が変わるのは当たり前では。
そもそも、何枚までなら短編扱いで、ずっと書けるの? 僕は。
プロでは、100麻衣でも短編なことは周知のことですし。
詩でも、原稿用紙1枚のときも、テーマが決まっている時もある。
臨機応変で対応できます。
小説でも、30枚までなら、ホラーだろうが、恋愛だろうが、あらゆるテーマに対応します。
たぶん、長くなると、破綻してしまうのは、人物群渦に対応できていなあからだ、
と、もう分かってしまいました。
なら、もうその対策をすればいいだけじゃないですか?
最近、何度か書いている、この’25年1-4月に身につけた新スキルや感覚で、
長編がもう書けるはずです。
’24年までの自分とは、違う。
過去や、過去に失敗作に囚われる必要はもうない。
自分の中のリミッターを外さないといけない。
米に、今朝、見た夢とは無関係に、昨日、そう気づいてしまってます。
(だから、明晰夢を、夢見たの?)
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