本田健さんの本が好きで、よく買いましたし、今もときどき読み返しては感心します。
すごく頑張るエネルギーをもらえますから。
感心といえば、
この間の、神戸で行われた「現代日本詩人会ゼミナールin神戸」の後の懇親会で、同席した方からも、
「ブログを見てますよ」と言われた後で、
「いつもエネルギッシュで、よくあれだけ時間ありますね」という趣旨のことで感心されました。
それは半分は正解で、半分は誤解です。
このブログや、NoteのSNSでは成功したこと、頑張ったこと、頑張りたいことばかりを書いているから、すごく成果が上がっているように見えるだけの錯覚です。
まあ、ここでも愚痴っているように、やろうと思ってできない毎日が僕的には多いです。
やる気があっても、何をやっていいのかわからない、ならまだしも、
やるべきことがやっと見えたのに、なんとなく壁があって次稿できないまま怠惰な時間を過ごしてしまいます。
で、締め切り前のギリギリ時間に、締め切り効果で、突貫工事をやっつけ仕事で完成することも多いです。
仕上がった作品があったり、わずかにある受賞、入選も、何年もかけて、何回も山ほど応募して、ほんの少しの成果にすぎませんから。
日々の微々たる進歩と、たくさんの講座や本からの学びを、なんとか積み重ねて、やっと少しずつ力がついている程度です。
でも、僕の、他の人に唯一、自慢できる「超1級の力」は、学び力だと持っています。
次が、「教える力1級」でしょうか、こうすれば失敗するからのアドバイスや、やる気がない時の元気の出し方は山ほど言えますから。笑
さて、この本田さんの本の終章近くではこうあります。
「メンター(導師)を見つけたら、死後はいかに、そのメンターを超えていくか」、だ、と本田さんは書いています。
その通りだと思います。
別々の人間なので、メンターの才能の完璧なコピーなんて、絶対できませんからね。
その劣化コピーを自分の中に取り込んで、いかに成長するかが弟子に求められる力だと僕は思います。
僕も、何十年にも及ぶ学びの人生で、数多くのメンターや、貴重な本に出会いました。
昔、は学び力や、学びを自分に中に具現化する努力の仕方自体がわかっていなかったので、全然でした。
だから、その具現化の方法を、他の人に伝えたいんです。
だって、過去へ戻って、やり直しができないから。
つまり、今、自分だけじゃなく、他人に文学創作を広めたいという使命感が、代わりにあります。
だから、カルチャーセンターで講座を持ちたいし、そのためにちゃんとした受賞歴が要るんですよ。
自分の名誉のためだけじゃなくて、偉いからでもなくて、純粋に伝えたいから、少しでも自分がいいメンターになりたいんです。
また、それは僕が子どもの頃から不器用だった過去の裏返しで、学ビストであること、筋金入りで、学ぶのが好きだからですね。
それが結果として、こんな混沌とした人間を作り出してしまったのでしょうね。
理屈も好き(文学系の本好き)で、体育系(空手、バドミントンなど)も芸術系・感性感覚系(デッサン、彫塑の立体、マンガ、絵本)、
あとデジタル系(アート・アニメーション)のデジタル・オタクでもある、というわけのわからない存在が、僕です。
凝り性で、飽き性ですし。
詩人で、小説家も目指すだけでも稀有なのはわかっています。
しかも、純文学系小説志向だけど、マンガやSFのエンタメ系も好きで、と小説分野でも破茶滅茶なのも、自分です。
(一応、卒業した児童文学系も隠れては存在しているか)
なんとか一番ものになりそうな詩の分野ですら、童謡・現代詩を書くほうに限定はしていても、近代詩も実はすごく好きなんですよ。
(俳句・短歌・川柳も複数の教室でちゃんと学びましたしね)
うん、自信を持って言える、こいつはバラバラだ、と。
混沌と化すほどに。
(ああ、実は大学時代は、古美術研究サークルで、仏像研究部門でした。歴史も好きです。
さらにWindows系・MSーDOSは自作PCを分解組み立てする純正のオタク世代ですよ。
でも、Macが大好きです)
これが、僕なんですよ。
貧乏だから、もう現役の時のように、色々と学び倒せない、のが最近の悩みです。
聴講に行こうかと計画していた、内田百閒文学賞の岡山での授賞式ですが、仕事と日がかぶっていることと、非新幹線でも往復6,000円もかかるので、辞退しようかと思っています。
(全くの落選だったですからね。
わざわざ、仕事の割り振りをお願いしてまで、ゆくほどでもないな、と思い始めて)
それなら、作品集を買って読んで、別の16,500円のNHK文化センターの講座を申し込む方が、2時間だけの講評を聞くのよりはコスパ的に正しいか、と。
小川洋子さんの講評を聞きたかったんですが、残念です。
うーん、やっぱり貧乏は困ったもんだ。
