シンクロニシティは突然に。詩と小説の連動と絲山秋子「小説の凄さ」 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

シンクロニシティはいつも、突然に訪れる。

 

今朝、いつものように朝4時過ぎに起きる。

今日は珍しく、猫のモンちゃんは起こしにこず、いびきを書いてソファで寝ている。

 

でも、僕の脳裏に、天啓が降りてきた。

昨日、夜、読んでいた、今日の小説教室の受講生作品。

その読みにくさの原因が、読み手を無視しているからだな、と自分の講評をメモして寝た。

それと、その前にずっと読んでいる絲山秋子さんのエッセイと小説の印象とが混ざり合い、リンクした。

 

あっと思った。

すでに、この2・3日前から気づいている、絲山文学の凄み。

エッセイでも小説でも徹底的に読み手へのアプローチを忘れない姿勢が頭に残っているから、そんなコメントを産んでいる。それが、自分の中の詩と小説の「書ける」「書けない」の差とどう結びつくか、その天啓が降りてきたんですね。

 

それ、こういう喩え噺になります。

小説と詩における、自分の中での読み手と書き手の力関係についての内容です。

 

詩の場合、書き手自分は「ヒャホー」で好き勝手描いている自覚はある。

だから、時々は、読み手自分へ主導権を手渡して「大丈夫かのう? 読み手爺やよ」と聞くんですね。

この遊び人な詩人若様は。

爺やは若様にも。バシバシ、悪い点、我儘表現を指摘、改稿させます。

 

だから、基本、書き手ファーストな詩の属性なのに、僕の詩は時々、入選・入賞するんだと思います。

(読み手じいやの厳しい書き直しに争いつつも一部だけ従って直しますから。笑)

結果、ちゃんと書き手へのアプローチ表現も含まれて作品化されていますから。

 

ところが、小説の場合はそうじゃない。

 

この小説の若様・書き手自分は、詩の若様と違い、すごく真面目です。

革ジャンを着て、バイクで走り回り、モヒカン刈をして「ヒャッホー」と暴れ回ったりする詩の若様とは違う。(おいおい)

けれど、一生懸命に取り組む小説の若様は、自分の作品に一生懸命すぎて、観客の存在を忘れて、いつしか自分ファーストで書いております。

それを見守る爺やも爺やで、堅物です(笑)。

この素直な若様が可愛くて仕方ないから、読み手を無視していることに気づかない。

気づいていても、主従関係を重んじて、ダメ出しできない。

だって、この真面目若様は指摘箇所を直すだけの素直さがあるから。

「我儘はいけませんぞ。読み手あっての小説じゃ」と指摘できない。

爺やもそこが気づかないまま、だったのですね。

 

以下、自分の日記、モーニングページからの引用です。

 

 

 

 

題は「絲山秋子の小説の凄さ、から」

 

絲山作品の小説とエッセイを比べると、わかった。

エッセイは統一された「場」がない。

時間も空間も登場人物も非統一で構わない。

我が儘なテレビカメラのように視聴者をあちこちへ、時間も国や地域も自由自在に引き摺り回す。

 

でも、小説はある程度固定されている。

もちろん,過去の経緯でいろいろな場所や時間へ飛ぶ場合もあるけど、それでも縦横無尽とまではいかない。

それをすると、自分ファーストな現代詩になっちゃうな。

統一された脇役が何度も出てくるし、章ごとにある程度以下に統一されている空間になる。

移動は読者とともに暗黙の了承のもとに動く。

(時々TV番組で出演芸人たちだけて盛り上がって視聴者を無視した「無芸」になっているダメ番組がある。

もちろんチャンネルは変えられるよね。)

 

思えば、言文一致や漱石の頃から、小説は落語と共有点があった。

観客を意識した話芸的な要素を、その出自から秘めているんだ。

その意味で、一般的な芸術性の高さからの、純文学が偉いイメージがあるが、エンタメ大衆文学こそが小説の王道なんだ。

(漱石も、限られた知識階級しか本を読まない読者の中での、当時は大衆文学)

 

この考えで、僕の詩についても思い起こす。

書けるようになってもしばらく2年度ほどはまるで入選しなかった。

こうべ市民文芸の二席になった作品から、どんどん入選入賞するようになった。

それって、自分の中に優れた詩の読者を作れたからだよね。

いつも、そのもう一人の自分読者に向けて書いているんだ。

つまり、詩は意外にも読み手と書き手の二人で書いてきたんだ。

 

小説は今まで残念ながら自分の中に優れた読み手が育ってなかった。

もちろん、他社の小説を読むだけなら、すごく深く読める読み手はいたよ、自作はてんでダメなやつが。笑

または、その小説の優れた読み手読者を読む時にしか使ってなかった。

だから、その声は聞けないまま、ずっと自分書き手の一人だけで書いていたんだな。

 

*  *  *  *  *

 

これで、たぶん、詩は息を吸うようにその素は書けるのに、なぜ小説はまるっきり書けないかの、ずっと悩んでした根本原因の一つは捕まえたと思う。

だからと言って、作品化すぐ変えれるほど甘くはないと思うけど、半年、2・3作、書けば、なんとかなる気がしている。

 

違う言い方をしてみれば、このブログの文章、どこかで読み手を意識して書いている散文です。

これなら、いくらでもお僕は書けるんですよね。

 

ところが、小説は物語の展開ばかりに気にする文章になっていました。

これをずっと【ストーリー展開の呪縛】と読んでいましたが、それって読み手ファーストじゃなくて、ある意味で書き手(その意思は消えてますが)優先になるんだと思います。

 

テレビの中の出演芸人の内輪だけを目指すような書き方は、方向性が間違っていますよね。

そんな文章を無理して書く必要もない。