昨日、書いたのと同じ作業をしました。
相変わらず、細谷功の本を読み、深く内省しつつ、他の小説家の具体的な作品を読み、少しずつ小説創作してみたわけです。
細谷功の本を読んでいると、「具体→抽象」だけでなく、「抽象→具体」への解説や力も、作品創作中に必要みたいだ、と感じる。
両者の行き来ができることが必要で、一方向への流れでなく、相互干渉できる力が必要なんだ、と。
で、この細谷功式の「抽象→←具体」的な視点での読解で、前に読んだ津原泰水の作品を読み直してみました。
すると、書かれていない現象をめぐって、太陽の周りを回るように、
「舞台」や「人物環境」をしっかりと描けば、小説が成立するんじゃないか、と実感が生まれ、気づき始めつつあります。
細谷功さんも、津原泰水さんも、それぞれ、2月、1月に出会う前までは、全然、普通の著者だったのに、
今はエポックメーキングを引き起こす本の作者になりました。
不思議ですね。
この感覚、今、サラッと結果だけ書いたけど、言語化がすごく難しい。
見えない太陽のような中心点を、見えない惑星にいて、「見えない状態」を維持しつつ描くようなイメージになるから。
うーん、今までは「見える」ように書こうと頑張って努めてきたことになるんですよね。
いきなり「見えないまま」でいいんだ、なんて、過去の自分から見たら、無茶苦茶な論理です。
でもね、細谷さんは、その著書で、
ソクラテスの「無知の知」の世界観で例示しつつ、かつ、今、普通の状態では「「無知の無知」だったことを知ることも必要」のような趣旨のことを提示してきます。
そこに、僕は「おおっ」と反応できました。
じゃあ、登場人物たちに「無知の無知」で置きつつ、作者は「無知の知」で書くって言えるよね、と僕は理解したからです。
これ、小説の真髄をすごく上手く言えた気がしています。
すると、作者が全て「知っていること」前提で書いている限り、到達できない世界に到達できる気がするんですよ。
と言うのも、考えれば、自分が現代詩を作品化する際と類似しているからです。
今まで、現代詩を書く際に「言語化できないモヤモヤ」を書きながら、見つけてゆく作業をしているんだよ、
と何度か、このブログでも書いてきたつもりです。
詩は省略の文学なので、自然と「無知の知」になって書けたんですね。
で、今回、その自然な詩の構造を、小説の、散文の世界へどう当てはめるか、分かったような気がするんです。
つまり、作品構造だけを比較して言うと、小説も現代詩も、文章の量が違うだけで「無知の知」の構造を一緒に持つことになったので、
(小説の場合、「無知の無知」を押さえて書く必要が加わるだけで)
あとは書きながら、自分のスタイルに落とし込んでやれば、いいだけな気がしています。
これで、自分の中での整合性もやっと埋まりました。
これで、このまま、詩と小説のギャップを抱えたまま、両方の世界を行き来できる橋をかけることができた気がしています。
(今まで、そのギャップを埋めようと努力していましたが)
僕の場合、単に小説の書き方を探るだけじゃなくて、片方でなんとなく書けてしまう現代詩との整合性を合わせる必要性があって、
長く苦しみ、二重に困っていました。
おそらく1年以内に、完全に、この感覚を自分のものとして、ちゃんとした小説を書く自分流のスタイルに転換できると思う。
だって、もともと、現代詩でできていることだから。
同時に、きっと現代詩そのものも、質的にもっとクォリティを上げられるよね。
(余談ですが、この完全理解が3/14だった。
石井ゆかりさんの星占いで、3月期の予言通りの日だった。笑
シンクロニシティだったんだね。
この2人の著者とも手に取った最初は偶然で、ほんの小さな出会いの本、筆者たちだったのにね。
ここまで、深い理解に到達できる不思議)
がんばります。
今日は、蜂飼耳さんの講演会へ出かけ、そのあと、飲み会ですね。


