仕事の年度末に向けた処理が終わり、やっと一息つけます。
今日は、午後、小説教室の飲み会で大阪へ行きます。
初顔合わせの方が多かった前回と違い、楽しみですね。
次回がZOOMな分、盛り上がりたいです。
スーパーで目に飛び込んできたものです。
もちろん、ジョージョラーとしては思わず買ってしまいました。
相方がメインで飲み終わりましたよ。
さて、いよいよ3月になりました。
相変わらず、小説を書く能力(もしかしてスタンドなのか?)を出せないままです。笑
でも、昨日も書いた井戸川射子さんの書法を真似て、今までと違う書き方をしており、まずは詩から挑戦中です。
ところで、僕は仕事が年度刻みのため、ずっと活動計画や予定も年度単位で考えてきました。
ちょうど3月が大幅に仕事がなくなる分、ここで150枚以上300枚ぐらいまでの中・長編を1本、書き上げてきました。
ダメダメ作品でも、それだけは書いて仕上げないと、本当にダメ人間になるので、〆切効果で、なんとかするつもりでおります。
結局、詩の新人賞3つは候補にもならず、だからというわけでありませんが、少し停滞期だと感じています。
だからこそ、井戸川さんの異質な書法を学ぶ事は必須の事柄なんですね。
また、この書法が小説にも関わるだけに、さまざまな波及効果をもたらすのは予想の範囲内です。
井戸川さんの書法は、詩も小説も拡散しつつ収束していると感じます。
その拡散方向が時間的にも、空間的にも広がるところが彼女の特色になっていると感じます。
問題は、拡散だけなら、たぶん詩人は詩でならだれもがでそうなんだけど、彼女の場合は収束して一つの方向性を与えているのがすごいところだ、と感じています。
詩でなら、僕も拡散だけならできそうなんですよね。
問題は、自分の書法と対照してみてわかったことは、僕の場合は時間が固定されている。
もちろん、僕も過去や未来の時制で語る事はあるけど、ほぼ1本ずつに収束してるんですね。
井戸川さんはそこで振動する、ブレる、多次元的で複数のラインがあるんですよ。
これ、僕の中に「見えない枠意識」があって、そいつがリミッターになっているとわかりました。
今、それを外す感覚を検証しています。
おそらく、マーサ・ナカムラさんに指摘された、心象風景と外形描写の関係、つまり、自分ファースト感覚に関係している、と感じています。
そもそも、僕の書法は人工的に学んで構築したものなので、そこにこだわる意識は全然ありません。
まだ発展途上だと思っているし、その点、僕の伸び代は、まだまだあるつもりなんですよ。
「分析できること ≒(ニアリーイコール)真似れること =(イコール)学びとれること」、だと僕は思っています。
但し、真似ても自分のものとして残るのは、結局は自分の属性に合ったものだけなんですよね。
つまり、自分の中に、その学びポイントと同じ属性の芽がないと実にならないんですよ。
もしくは長い時間をかけて消化して、やっと花開き、実になる、といえば正しいのかな。
知的好奇心の塊な僕は、分析的・論理的でありながら、感覚的という矛盾した存在です。
理屈っぽいのに、時々、理屈を超えて、やっちゃう。
行動面でも、表現作品面でも。
ある程度まで論理的に分析d系たら、あとは感覚でなんとかしてしまえるんです。
(これも才能なのかしら。無茶苦茶なだけだと思うのですが)
音楽だけは苦手なんですが、美術と文学ジャンルではあらゆるものが関心領域で「イッチョガミ」ですからね。
しかも、格闘技オタクで、バドミントンオタクでもあった、とスポーツも好きな種目がある、身体性持ちであるキャラなんて、設定的に矛盾で馬鹿げてると自分でも思います。
とにかく、1本、詩を書き上げます。