今日は午前に仕事。
この間の、1日講師の案件の続きです。
講座の一般の方々とは別に、頼んできてもらった大阪の友人を、本当は詩や文学を描く方向へ誘いたかったんですが、
そうはなりませんでした。
1時間の講義で、しかもワークショップ時間が15分もない中では、そんな転換などどんな文学の神様でも無理ゲーだと思います。
それは分かっているんですが、
2時間の枠全部、使わせてもらえたら、と残念でなりません。
こちらからは二度とは誘えませんので。
他の、受講生の方々は担当者の方も含めて、互いにお知り合いの、ほぼ同一グループのようで、
つまり、基本、一般的にある詩や小説の創作教室で行われる、提出された作品を互いに、また主催の先生が講評する〈書け書け式〉合評会形式に慣れた方々なんですね。
(一度、その福永祥子さんの詩学舎へ出席したいです。
たぶん、兵庫県現代詩協会か、詩論研か、どこかの会合でお話しした記憶があります)
これは、それがダメと言っているのではなくて、別のやり方もあるんだ、と喧伝したいんです。
何せ、僕のやっている、また実施した〈ワークショップ主体式〉とは、たぶん、キリスト教と仏教ほどに宗旨が違う、と思います。
それは詩や小説とは何かの構造から入り、個別化を図ってゆくものなので。
友人の漏らした言葉、「難しい」はその通りだと思います。
そりゃ、〈書け書け式〉の自由に作品を持ち寄って、提出、講師の先生の添削で、次に繋げる方が「シンプル」ですよね。
作品を書く難しさと別に、抽象的な構造を、自分へ具体的・個別的に引き寄せる作業が入りますから。
僕の昨年度の明石市文芸祭の市長賞作品で説いた「変身」や「返信」が必要なのは、仕方ないことだ、と思っています。
変身プロセスは難しく、悩む必要があるんですよね。
だって、僕自身も小説において、もう一段上がるために苦しんでいいますから、
その大変さはよくわかります。
このやり方で講座を持って、世に問いたい。
ますます、これが僕の成し遂げなくてはならない、この’25年の第1段階の目標になって来ています。
うーん。
