猫を捨てる詩人 室生犀星。ちょっとガッカリ | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

僕の猫好き歴は短い。

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ブリティッシュ・ショート・ヘアの文(もん)ちゃんを、子猫で相方が買ってきた3年ちょっと前ぐらいだからね。

それまでは、自分は犬好きで、猫は苦手だった。

もっとも、どちらも飼ったことが無かったので、好き嫌い以前の問題だったかもしれない。

小学校の頃、野良犬を拾ってきて、飼いたいと親に頼んで、断られたしね。

 

猫は、母親の師匠格の美容師さんがずっと飼っていて、そこへ行くと、音もなく忍び寄ってくる(当たり前だ)から怖かった。

犬は、叔母の家でダックスフンドやらを飼っていて、よく座れと吠えて、これは偉そうだった。

 

で、何かの雑誌や伝記の本の写真を見ると、作品もだが、猫を飼っている文学者が多い。

で、たぶん、室生犀星などは猫好きなイメージがあって、ずっと好感を持っていた。

 

犀星は、小説家でもあるが、生涯、詩人であり続けた。

近代文学で、両方に実績を残した人はあまりいないので、珍しいと思う。

(残念ながら同様に、詩人兼小説家である、井上靖(近代文学でなく、現代文学者のはず)などはご本人の思い入れはあるようだが、詩は気持ちだけを述べた作品で、彼の小説の凄さにまるで及ばない、と思う。

 

近代文学では、他に誰がいるだろう。

 

賢治は、詩人ではあるが、童話作家であり、小説家ではない(彼自身は、作品をすべて心象スケッチと呼び、区別してなかったにしろ)。

というか、そもそも、生前は、その唯一出版した『注文の多い料理店』ですら、酷評されて評価されず、

詩の方は『四季』の同じ同人として、本当は中也が実はそのオノマトペの影響を受けたらしいぐらいなのだが、世間的には無名のままだった。

 

三好達治は、詩以外に、売文屋と蔑まれながら生活のために翻訳文などを山ほど書いたが、小説は書かなかったはず。

誰もが知る、近代文学の詩人では犀星ぐらいじゃないか。

 

中野重治も近代文学でなく、現代文学者だと思うが、詩も小説も良かった記憶はある。

うーん、記憶にないな。

 

試しに高校の国語便覧で近代詩を見てみる。

 

ああ、島崎藤村がいる。

確かに『若菜集』は今も読まれるし、文学史上特筆すべき、今読んでも面白い稀有な詩集だと思うけど、

それっきりで後は小説家に転向したような活動に思う。

『夜明け前』が自然主義文学の数少ない成功例だし、まごうことなき傑作中の傑作だからね。

あまりにも、小説家存在がデカ過ぎて、「そういえば詩人だった」と過去形にしたくなる。

Wikipediaを見ても、第4詩集を出した後は、詩を離れたとあるからね。

そもそも、僕も第4まで出してたんだと初めて知ったよ。

まあ、明治の人だから古すぎるか。

 

あっ、そうそう。

表題のことだけど、もちろん、僕も犀星ときたら「小景異情」の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」が思い浮かぶし、そのノスタルジックなポエジーは上手いと思う。

小説もいくつか読んだけど、すっと入ってくる上手い文章ですよね。

 

で、好きな作家だったし、猫と一緒の写真もよく見たから、猫好きなのは随分、昔から知っていた。

本人も猫が好きだ、と書いた文を見たような気もする。

 

自分が詩を描き、詩人の端の端の、そのまた端の、詩を書く人になったから、詩人全般への親密度が増した。

犀星へもそうだった。

詩人が猫好きだと嬉しくなった。

 

でも、最近、何年も飼った猫をポイと捨てるような人だったと知って、心の底からガッカリした。

しかも、何匹も同様の行動を繰り返し、中には子猫から飼っていた子もポイ捨てしたらしい。

 

もちろん、昔の人だから、現代の価値観で糾弾するのはルール違反だ。

頭ではわかっているけど、すごく裏切られた気分になってしまう。

 

なんか、許せない。

あの「小景異情」の弱いナィーブさも嘘っぽく感じてしまった。

 

 

なんで、それを書いたかというと、最近、買った、この本で犀星がいたから。

 

その顔を見ただけで、ちょっと嫌な気分になる。

(虫唾が走る、って感覚はこれだね)

弱いものイジメが昔から嫌いだ。

子どもの頃、自分が弱くてよく虐められた方だったし。

 

子ども同士なら、まだいい。

少なくとも同格で、本人がやる気になれば反撃できるのだから。

でも猫は人間の20分の1の大きさだ。

言葉で抗議や恨み言も言えない。

 

しかも、何年も飼われていたのに、いきなり捨てられたら……。

 

うーん、やっぱり、許せないぞ、犀星。

お前の詩は、全部、嘘っぱちだ。

 

そう思ってしまう自分がいる。

 

好きなふりをするな、と思うんだよね。

偽善者め。

それぐらい、腹が立ってしまう。

 

(でも、室生犀星賞なんてのがあって、あげるよと言われたら、少し躊躇しても貰うだろうな。

 僕も偽善者なのは犀星と変わらない。

 

 その場合、後で自分が許せなくなるだろうな。

 

 今でも、文学賞でも絶対、応募しないと決めているのもあります。

 日本人を馬鹿にするところのものは、嫌だ。

 死んでも貰いたくない。

 それなら、無位無冠なままがずっといい。

  

 魂まで汚れそうだからね。

 さすがに、そこまで犀星が嫌いなわけじゃない。

 捨てられた子の気持ちを考えると、ただ許せないだけ。)