昨日、このブログで書いたように、ここ数年出している、「ニッサン童話と絵本のGP」への改作を落選作で書こうと思ったんだけど、
どうも、手持ちのものが絵本用の幼年童話だで、それを改稿しようとしたが、どうも無理っぽい。
かといって、同賞で過去、落選したものを書き換えても入選しそうになく、モチベーションが上がらない。
10枚だから、アイデアや構造が浮べば、1日出かけちゃうはず。
もちろん、もともと僕の童話で主人公にしている、チィちゃんシリーズの一つとして書き出す可能性はまだあるんたけど、
改作じゃなく、新作にしようかと思い始めている。
そもそも、既存の童話を書いて、またストーリー展開の呪縛にハマるのは、この4月以来、いま、自分が最も嫌悪し、忌避したいことなんだよね。
どうせやるなら、童話じゃなく、小説的な全く違うアプローチをしたい。
と思ってたら、「わっ!」。
積読の本が崩れてきた。笑
たまたま、崩れ落ちた本の束から坊っちゃん文学賞のショートショート入選集『夢十三夜』を見つける。
これだ! これはシンクロニシティかな。
改めて、チラッと読みすると、今までの自分の童話における、ストーリー展開のやり方や発想が間違っているのがよくわかる。
どこか、童話だから、と枠をはめて、自分の幼年時代の反映をどこかへ入れようと体験主義的発想しか出てこない。
そもそも、それ本当の意味でのストーリー展開じゃないですからね。
どうも呪縛され、その世界の中をぐるぐる回ってしまい、枠外へ発想が広がらない。
すごく閉塞感がある。
ああ、嫌だ嫌だ。
これ、これ、この閉塞感がたまらなく嫌なんだよ。
自分が作り出しているものなのい、全然、殻から出れなくなっちゃう。
読み手ファーストで見せたいポイントがズレてる感じ。
そうそう。今までの、僕の童話は、詩の書き方の延長線上で、どうにも自分ファーストは自己表現話なんだよね。
〈どうなるどうなる〉の効かせ方が間違っている、気がしてならないんだ。
だから、童話・児童文学から決別するつもりで、星新一封のショートショートを3月末に書いて、「清流の国ぎふ ショートショート文芸賞」へ出したんだっけ。
そうか。
こうした〈メンター本〉を見つけることが大事な気がする。
その〈メンター本〉を見本にして、展開構造の再構成を考えながらやらないと、前と同じ呪縛の無限ループになってしまいそうなんだ。
だから、童話を書くのが気乗りしないんだよ、きっと。
じゃあ、童話じゃなく、ショートショート小説のつもりで描こう。
すると、僕の場合、自動的に(なぜか)読み手ファーストになるから。
そうしたら、きっと、この短編創作での経験値・頑張りが三田文学へも応用できる気もするから、ね。
僕には、もう停滞している暇はない。
詩も小説もまだまだ未熟。
だからこそ伸び代はある。
学ビストの本領発揮で書かないとね。
自力主義は、失敗した神戸市行政の地下鉄路線みたいなものだから。
同じ失敗でも、次に繋げないといけない。
昨日の、さらっと書けた西脇順三郎賞や白鳥省吾賞の詩篇のように、今、すぐそばに文学の女神様が座っていそうなので、
この機に、児童文学だろうが、純文学だろうが、さらさらと書かないといけない。
まさか、女神さま、「アタシ、詩が専門で、小説担当じゃないから」なんて、おっしゃらないですよね?