京都芸術大学の通信教育学部油彩画コースを卒業する際には、100号サイズ(1,62m×1,12m)の卒業制作を作りました。
愛知芸大出身の美術の教師の友人には、「卒業制作を作らないと見えない世界があるから(頑張って)」と励まされました。
実際、作ってみたら、その通りでした。
卒業論文でも同じで、慶應通信の際、12万字の卒論を書きましたが、あれで僕は生まれ変わったと思います。
(僕自身は「知の再構築」と読んでいます)
ある意味、今、内容を気にしなければ、300枚ほどの小説を書けるのも、原点にあの慶應通信の卒論経験があるからです。
手塚治虫のマンガ論で、好きでやってるはずなのに、ほんと、途中で吐きそうになりました。
1年かけて、じっくり大作へ取り組む経験は、今軽薄短小が良しとされる時代には、貴重な経験になるのですね。
で、今、取り組んでいる第2詩集は、第1詩集『ことわり付喪神』を刊行した’21年9月以降の詩作品を、入選・入賞作を中心に編もうとしているのですが、
今回は、単に自分の出来のいい良作を並べるのではなく、ある試み・〈企み〉を、お遊びで入れました。
今の所、23篇は並べ替えて、その順序影響も計算して決定。
何よりも面白いのは、詩をとなりの、つまり前後の詩篇をどんなものを配置するかで、
「読み手の意識」が変わるのですよ。
それはハッキリしています。
まるで、小説の章と章の並びのように。
しかも、その響き合いは、読まないと見えなくて、
これが詩集を編む最大の醍醐味ですね。
また、そうすると,足らないもの、あって欲しいものが見えてくる。
(きっと、これ、小説家的な感性で感覚です。)
だから、あと、必要だと感じる数篇を、この詩集用に書くだけです。
11月初旬には印刷所へ出すので、それまでに表紙も作ります。
一応、自分の絵もあるし、デザインできるので。笑
1ヶ月あるから、いい詩が追加できるといいな。
どこかで受賞して欲しいけど、それは詩篇さえ並べれば、あとは祈ることしかできないから。
果たして、読んだ方がどう思われるのか、楽しみです。
が、今回は七月堂のような定評のある出版社にも頼まず、純粋に自費出版で印刷所へPDF入稿で済ます廉価で安価な仕様です。
「ことわり付喪神」と同じく、メルカリで売るものの、どれだけの人の目に触れるかもわからない。
ですので、全然、期待しておりません。
中也賞をはじめ、いくつかの詩集単位のところへ応募して、知り合いの詩人方へ献本して終了です。
(もし、どれかに受賞したら、ちゃんとした出版社へお願いして再版するつもりではいるのですが。)
数年後、また溜まった詩篇で、第3詩集を作ります。
が、それまでには小説家か、詩人かでプロ・デビューしていて欲しいです。笑
その際は、ちゃんとした出版社で出す意味があるでしょうから。
あと、詩集を編みながら、思ったことが幾つか。
3年前に書いた詩作品なんて、記憶が朧げなので、結構、面白く読めました。
自分で感心したり、今だと逆に書けないな、と思ったりもしました。
また、昨日だかに書いたように、こうして編集していると、〈編集者キャラとしての僕〉が登場するので、
これが冒頭に書いた卒論や卒業制作と同じで、詩集を編まないと「見えてこない景色」と同じものです。
その〈編集者キャラ〉はどうやら、小説家な僕と気脈を通じているらしく、前述した純文学系小説を書く際の〈企み〉を即座に考えだしてくるんですね。
当然、その〈企み〉に沿った詩篇も「書けよな」と注文してきます。
3年前も、同様の要求があって、「ユリイカ’21年5月号」の投稿にトップ入選した作品が生まれたのでした。
その時は、純文学的な〈企み〉意識が希薄だったので、1篇で済んだのですが、今回はあれこれ注文があって、
1篇は書き上げて、もう「現代詩手帖」へ投函しました。
もう2篇ほど書いて、載せるし、これも書いたように西脇順三郎賞ほかへも、その系統で応募する予定です。
あと、2・3日、詩人意識に専属させていて、また、小説創作へ戻ります。
本を作るのは、楽しい、と思います。
