今日は、亡くなった母のために年金事務所へ | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

今日は、詩と小説の関わりについての、ぐだぐだの、よもやま話になります。

 

今日の割り振りは午前が仕事で、午後は5月に亡くなった母親のために年金事務所へ手続きに行かなければいけない。

人間、死んだら終わりでも、その後始末は遺族にお願いしないといけないのですがね。

 

さて、昨日、紹介した本田健さんの著書『決めた未来しか実現しない』の感覚は、まだ保持していますが、

どう活用できるかは、まだまだ考慮中です。

あと、創作関連では、前にこれも、ここで紹介した「こうべ市民文芸」の詳細がわかりつつあります。

阪神淡路大震災から30年ということで、震災関連の作品も求めているということで、僕も体験した者の一員として、

そういう作品を詩で、予定が空く12月か、小説創作の合間に一つ詩を書こうかと思います。

 

もう、それだけで頭の中に詩の元になるモヤモヤが、心の隅っこにできてしまっています。

 

これ、このプロセス、我がごとなのに、すごく不思議に思います。

言葉を見ると同時に、思うとすぐ、何らかのモヤモヤが味の素ならぬ〈詩の素〉が心に生まれるのですね。

 

僕は、根っからの詩人じゃなく、8年前に僕自身の意思と工夫で、人工的に詩人になったはずのに、

今や、まるで根っからの詩人であったかのように、本当に息をするように〈詩の素〉ができちゃうんです。

その〈素〉へ自然と〈企み〉が加わるときもあれば、意図的にアイデアを浮かんだものを後から加えるときも、両方あります。

ほんと不思議です。

何なのだろう。

 

たぶん、その遠因の一つは、詩自体には21歳で書いた卒論、2万字ほどが詩人・黒田三郎で、その全集も読み込んだし、

その頃、ゼミの先生が谷川俊太郎も加わっていた詩誌『櫂』の同人で詩人の笹原常世先生だったから、

いっぱい詩の話を聞いたことや、さまざまな詩人の詩もたくさん読み耽った、からなのでしょうね。

 

僕にとっては、詩は何十年も長く書けなくても、旧友であり続けていたのでしょう。

 

でも、震災詩を書く前に、詩関連では第2詩集を、ちゃんと〈企み〉を持って創りたい、欲求があります。

中也賞の締め切りに間に合わせたいので、11月までにしか本で出さないといけません。

両親の死に対してのレクイエムでもある側面とテーマも含まれているので、ぜひ今回は出さないといけない気がしています。

 

’21年刊行の第1詩集『ことわり 付喪神』がほぼ入選・入賞作品の寄せ集めを無理やり詩集化したものだったから、

第2詩集は、ちゃんと意図的に編みたいんです。

 

でも、きっと、この〈企み〉の要素は未整理だっただけで、

僕の中にいる童話や妖怪妖精ファンタジー好きやら、小説やらのさまざまな要素は全て『ことわり 付喪神』の中にもともと種子として内包され含まれています。

 

ただ’21年から3年経って、まだほとんど成果は出ていませんが、僕の中の小説家は、それこそ芥川賞を獲っても不思議じゃないほど成長しています。

たった3年のことですが。

その自覚はあります。

だって、「書かないことで、書くのと同じ要素を読み手へ送る」スキルを多少なりとも手に入れたので、それを現代詩創作の中にも、無意識に傾れ込んでいますから。

 

最近の、詩におけるいくつかの入選、入賞がその兆候であることは、何となく、それが原因だろうとは思っています。

 

矛盾していますが、僕は「小説って何だろう」と哲学的やら、文体論的にやら、深く沈思すればするほど、詩も「深く」なるみたいです。

それは、きっと僕の詩自体が元々は小説を書く上でのスキル・感覚を転用したものだからだと思います。

両者はその奥底では完全に繋がっています。

 

作者は同じだから、当たり前なのでしょうが。

僕からすると、多くの小説家が詩を書かないのが不思議です。

詩人が小説を書かないのは、僕もうまく書けないのでその難しさが原因なのはわかりますが、何でだろうと疑問に思ってしまいます。

 

たぶん、僕の文学世界の、一つの目標は「詩のような小説を書くこと」と「小説のような詩を書くこと」なのだと思います。

あまりにも、僕の中で両者は近く、混在しているので。

 

でも、今のところ、小説が詩に比べて、その文学的業績や結果が極端に出ていないので、ちゃんと書けるようになって修正したいんですね。

 

自分が根っからの詩人だと気づいても、小説への憧れを捨てられない、僕です。

 

うーん、作業が三つ。

 

一つはこのまま群像新人賞への応募原稿へ取り組む。

これが一番大変で、正直、理由をつけて逃げたい、です。

9月は二週間の間、無意識に、これと闘っています。

 

二つが、書き上げた文學界新人賞向け原稿の、推敲と第2次稿化の作業。

これもやり出すとスイッチが入ったら簡単だけど、少し躊躇して逃げています。

 

三つが、第2詩集の完成。

85%載せる詩は前に選別したので、纏めるために繋ぎの詩と、読んだら浮かぶでろう「書きたい詩」を書いて完成させること。

これが一番楽なんだけど、小説たちからの逃げだから、な。苦笑

 

うーん、悩みます。

とりあえず、群像を1枚だけでも書いて、次に9/30締切の文學界2次稿を完成させる。

しばらく放っておいて、詩集をやる。

 

つまり、時間差三つ同時行動……かな?

だんだん、この三すくみのどっちつかず状態に腹が立ってきましたから。