星新一の「おーい、でてこい」をいつもの、読解分析で詳細に、その表現効果を分解してみた。
小説の構成要素を、中村航先生式の、〈キャラ、ストーリー、世界観〉だと仮定する。
すると、キャラ性が皆無に近いのがいつも星新一流(僕が星作品が高校のときから苦手な理由)であるにせよ、
ストーリー性がアイデアだけなら、もっとはるかに短くできることに気づく。
この「おーい、でてこい」の本文は計算すると9,4枚だったからね。
つまり、アイデア的には余分に感じる部分、右往左往する人間社会にこそ、作者の星新一さんが書きたい様相であったのだ、と推察できた。
だってね、星新一に無駄な文章はないからね。
この短編集の他は、大部分にが4-7枚の作品で、この『ボッコちゃん』に限らず、
もっと短い作品は星新一に山ほどあるのだから。
そうした中で、わざわざ9,4枚にしたのは作者に必然があるんだ、とわかる。
(もちろん、10枚ぐらいで、と掲載先の編集部から注文があった可能性も否定できませんが)
なぜ、9枚も星さんは使ったのだろう。
この疑問は大事です。笑
これは、創作者であり研究スピリットのある僕ならではの視点・切り口だと自負させてください。
また、さつき、今流行りの異世界ものアニメを観たあとだったので、この作品を分析すると、
まるで星新一流の付与魔術が施されたように感じました。
最後には回復魔法で全編が再生されるようにもなってるな、と。
この辺は、口で、いや、文章で説明すると、つまらないので、省略します。
何がどうなのか、お考えくださいませ。
さて、詩とショートショートは、削ぎ落とし性では近似値だ、と分析しながら、ずっとその近似値を感じていました。
そもそも、物語は叙事詩から生まれたのだから、詩が母猫なのですね。
昨日、某女子大教室で、僕の詩作品に対して、先生から「それはモダニズムで終わった(技法)」と言われたけど、
そうした終わったはずの文学史から新しいものを再生すること。
それこそ僕に課せられた使命なんだ,と感じています。
何より、僕は詩人だけじゃないから、と思ってしまう。
(純粋詩人の意識にはなれない。
作品上のことじゃなく、詩界という閉じた世界の住人にはなれない、といつも感じています。)
しかも、創作者でありつつ、研究者性こそ僕の本質に近い。
だから、昔の技法を継承することこそ本望なんですよ。
この辺は、プロ小説家でも、プロ詩人でもない僕が説明しても説得力がないので、
口が裂けても言えません。
また、詩と小説の差。
自分ファーストと読み手ファーストの感覚差を、たぶん理解してもらえないので。