昨日は、「来てね」と誘われて、参加した某図書館で詩の会。
この会は詩の書き方、読み方を示す、趣旨の初心者の方がメインでした。
で、作品への講評へは当然、遠慮があって、しかるべきだけど、
「詩は自分が思っていることを自由に書けば、詩になる」
「嘘の詩じゃない。本当の気持ちを書かないといけない」
と、プチ詩論も一緒に提示された気がしました。
どれも、よく言われる詩論だけど、
どうなのでしょう?
正しくもあり、間違ってもいる考えだ、と正直、僕は思います。
吉野弘さんや、ある意味、まどみちおさん的な優しい文言の詩って、今の二つのプチ詩論そのままなような気がします。
誰も「書けそうな」優しい言葉で書かれていて。
でも、お二人の詩って、そう簡単に書けるもんじゃないですよ。
初心者の方も、長くたくさん書いていると、徐々にわかってゆくから、それでいいんだ、という意見がありそうですが、
これもどうなのでしょう。
難しい詩がいい詩だ、も誤解ですけど、
そのまま、このプチ詩論的な考えで行くと、究極、才能(天授)説に行きそうで、僕はすごく嫌です。
「ああ、オレは正直に思いを述べているのに、まどさんのような詩は書けない、才能がないんだ」って苦しみを助長するだけのような気がするんです。
僕は、繰り返し述べているように、この才能天授説が嫌いです。
究極、後天的な努力や工夫といった【学び】を否定しているようですから。
思ったことを書けたらいいんだ、って、それって、「誉め殺し」的な詩論であり、考え方ですよ。
そう。
詩を書いても、自分の詩として、心が上手く表現し上手く言えない苦しみ、書けない煩悶。
日常の言葉からは、離れないとオリジナルな気持ちは表現できない。
例)「美しい」や「楽しい」は、そう書いたからって、本当の美しさも楽しさも相手へ伝えられない。
「いや、伝えられるよ」と信じられる人は、僕の考える詩人とは違います。
僕自身は、そこからが詩のスタートだと思うんです。
僕が初心者なら、気休めじゃない、その書き方のヒントにある「本当」が知りたい。
「意味を伝える働きの日常語でそのまま書いたら、全て理解してもらえる詩になる。
それは傲慢な考えではないか。
詩はそんな単純じゃない。
出ないと、多くの、あの詩人たちの、日々の煩悶はそれだと無意味になる。
詩も「芸」と「術」を的確に示すべき、修練の積み重ねが必要になるんだよ」
本当はこんな本音を言いたかったけど、みんなをビックリさせるから言えない。
怒られちゃうからね。
あと、誤解されると困るから、断言します。
僕は、残念ながら、詩に限らず何事も最後は【才能の有無】だと思ってますよ。
でも、努力しない、学ばない天才は凌駕できる、勝てると思ってます。
どの段階で、才能の有無がわかるかは難しいですけど、努力の果てに気づけますよね。
困るのは、天才なのに、天与の才があるのに、努力する人。
「ウサギさん、そんなに一生懸命、走らないで、あなたの勝ちですから、サボってよ。ノロマな亀が追いつけなくなるから、適当でやめてください」と言いたいです。。笑
あと、本当は、
「僕ね、こうしたら、上手く詩の感性が手に入るよ。
まずは言葉じゃなくて、あなたの感性・日々の生活を切り取る眼を創り、日常から転換して、始めるやり方がいいですよ。
一見、遠回りでも、いい詩を書くこと、いい小説を書くことに繋がりますよ。
ほら、まずこうするんです」
と、やり方を教えてあげたいです。
教えること。
教わること。
それが【学びスト】の本能なんです。
当然、いい学び方を知るものは、いい教え方ができるんです。
どこで躓くか、よくわかっているから。
僕なんか、1000の躓きと、10の成功で、この位置に立っています。
(もちろん、教わったからといって、100%体得できやしない。そこも才能になる)
でも、実績がないと、言葉に説得力がない。
もっと高く、もっと高く。
登って、登って、タイトルを獲るしかなんだよね。
わかっているのに、行動できない。
詩を書く感覚と、小説を仕上げる感覚は、全く違う。
でも、共通する部分も、当然ある。
つくづくそう感じます。
このまま、伝授できないのは、辛いな。