昨日、池袋コミュニティ・カレッジのオンライン授業「空想ワークショップ」を体験授業した。
面白かった。
授業内容は、物語学の理論からフィードバックするようなエンタメ系で、でも課題実技系の授業だった。
受講生の提出ショートショート作品は話の捻り方など、発想もとても面白くて、初心者ではなくレベルは高そうだった。
ご年齢も、お若い方はいなくて、その分、発想の柔軟さが光っていた。
講義順序としては3回目だけれど、どの方も長く受講してそうで、多分、教え方も実践的なのかな、と思った。
一度、ちゃんと受けてみたいと思った。
途中からでもOKそうな雰囲気だったから、予定では7月からか、と思っていたけど、
これなら、5月第4土曜で4回目の5/25から行けなくもない気がした。
その理論と実践との鬩(せめ)ぎ合いと反映の仕方が僕の心の琴線にそっと触れてくる。
すると揺さぶられ刺激されて、小説を書くプロセスと、その原理が、スススッと透過されて見えてくるような感覚に襲われる。
某御大の教室ではその曲がり角のチラ見の尻尾の影しか見えなかったのが、今、「あっ、そうだったんだ』と本体ごと全部が見えてくる感じだ。
もちろん、それは先生が悪いんじゃなくて、僕の力不足と、刻がまだ満ちていなかっただけなんだ、としみじみ思わせてくれた。
もう一度だけ、11月に凱旋受講なんて、思ってたけど、とてもとても、そこまで行けないな。
その意味では、今回、自分の立ち位置が確認できた、不思議な授業になった。
受講を、7月からか、5/25からかは、4月からの開始を予定している、もう一つの小説教室を受講してから決めるべきだ、と思った。
とにかく、児童文学はキッパリ休止して、大人向け小説に専念する’24年度にしなければならない。
背水の陣で臨まないと、片手間でできる力量はないし、児童文学と大人文学は近代詩と現代詩以上に、いや、詩と短歌・俳句以上に距離のある、別物だからね。
まして、大人向け文学で、エンタメ系と純文学とではさらに限りなく深く広い溝があるしね。
僕はまだ、そのどちらとも全力で戦ったことがないのが実情なんだから。
ずっと微速前進な小説創作の歯車が、大きく動いている、そんな気がする今、現在だ。
これね、これから動き出す予感とかじゃなくて、このダメだったなあ、という認識自体が実感としてあるので、
もう現在、動いている感覚があるんだ。
もちろん、今、取り組んでいる児童文学が当然、同じ物語・小説ジャンルとして近縁種であることから来るものだからだろう。
つまり、こんな風に知識と、実際にやる感覚を結べばいいんだなって、お手本を見られて、あっと気づいた。
わかったんだ。
自分が持っている既知の知識を〈小説を書くプロセスと、その原理〉として、こんな風にやれば、実践すれば良いんだよって、〈スススッと透過されて見えてくるような感覚で使い方がわかった〉気がしたんだよね。
(あの、詩が自分にも描けるんじゃないかって、7年前に思った時と同じように)
また、きっと、5月下旬なり、7月なりに受講するまでに、自分で自学自習できる気もしたんだ。
これバドミントンや絵画を学ぶ過程でも、よくあったことなんだよね。
絵で言えば、絵を描けるようになるって、究極、一人絵画史の遡上実施になること、つまりルネッサンスから始めて印象派やキュビズムあたりまでの絵画史の一人実施になってましたからね。
そう頭でっかちな知識って役立たない。
自分の体の奥の感覚へ、体感へ落とし込まないと、知識って本当には使えないんだよね。
少なくとも、僕が〈真に学ぶ〉事って、そうだったんですよ。