昨日、書いた、特別な書き方を求めるんじゃなくて、
今ある書き方を、既知の知識で丁寧に書くことの大切さに気づいた、ことの続きです。
つい、詩や小説を日常的に書くことが僕は普通になってしまっているんですけど、
これって〈特異点〉行動なんですよね。
若い知り合いの方に、創作するって、こんなやり方だと普通なんですと紹介する機会が僕には、いくつかありました。
お一人の女性は、素直に、僕やり方に学んで、この間、某新聞のエッセイ賞で最優秀となり、その新聞に掲載されました。
作品を読むと、僕にも到底、書けない小説風の面白いもので、うーんと唸らされる傑作中の傑作でした。
(彼女には、こうすると失敗するよ、こう考えたら成功するよ、って、正直にあらゆる情報を惜しみなく与えました。)
正直、その地方新聞のコンクールには勿体無いレベル。
もちろん、同じネタでいいので、作り替えて、「30枚の短編小説にしましょう」で、次にその前後を継ぎ足して「100枚の小説にして、大きな文学賞に応募しましょう」と僕はその先を勧めました。
あと、どうなるかは彼女次第です。
才能はあるので、あとは本人の頑張りと欲で、龍になり、天へ登るかもしれません、僕なんか置いてけぼりだだな、と思いました。
もうお一人、これも僕より若い女性に、短歌の公募賞をお勧めしました。
その時は乗り気だったんですが、1月末の締切なので、確認したら、不可とのこと。
ガックリ。
作品自体はできているそうなので、もったいないと思いますが、一般の関心度はこんなものなんですね。
書くのも、異常なら、書いて応募するのも非日常のことなんですよね。
この場合も、僕がもし芥川賞作家なら、もう一押しできる権威があって、なんとかなったのだろう、と残念に思います。
「力亡き者の無力さを知れ」
『ココア共和国』にも、僕自身が落選して入国不可の時に、僕の教えた10代の若い人が入国しています。
喜ばしいことです。
広く世に認められることは嬉しいですよね。
特に、初めての入選・入賞は励みや力になります。
詩をもっともっと広めたい。
詩や小説を書くことはもちろん、それを継続的に行うのは〈異常者〉ですよね。
僕自身も、どちらも書けなかった16年前の自分が、もしここにいて、今の僕の行動を見たら〈異常者〉か〈異能者〉扱いしているでしょうから、
それも無理のないことです。
そういえば、西脇賞の1次選考通過者が24日発表されました。
もちろん、僕は落選でした。
通過者を検索すると、新人賞の方も無名の人もいるが、現代詩人会の人もいる。
日々、無力感に苛まれている僕ですが、ここからの抜け出す方法は書くことでしかない。
わかっているのに、書けない苦しさ。
でも、詩に専念すれば、逆にもっと苦しいだろうな。
もう挑戦し尽くして手詰まり感のあふれた児童文学じゃなく、大人の文学へ逃げたい、と日々、思います。
詩の場合のように、金鉱を掘り当てるかもしれないから。
昨日、録画していたTV番組「英雄たちの選択」でジョン万次郎を観た。
歴史の影に隠れている冒険者と冒険スピリット。
その教育者魂。
無人島い何ヶ月も取り残され、江戸期にアメリカの渡った彼に比べれば、今、僕のいる環境は天国だ。
(年齢を言い訳にはしないこと。無限の言い訳を考えられる。自分には才能も運もないんだ、なんて)
リスクや成功率を気にせず、安全策を選ばず、彼のように挑戦者でありたい、と羨ましく思う。
熱くありたいよね。
逃げたい自分、諦めたい自分、怠けたい自分との闘い。
もう、自分一人のためじゃなくて、誰かのためじゃないと、この無意味さと闘えないことに、僕自身も気づいています。
ハズレ籤を引く勇気、無意味・無価値だと思うことへ挑戦する行動力。
そこに、前記した若い女性へのアシストのように、誰かの役に立つためなら、この無価値・無意味に思える活動にも意味を見出せるんですよね。
僕の屍を乗り越えて、先へ行ってもらえる可能性なら、今の無意味に感じる僕の挑戦にも、意味があると信じることができるから。
たくさんしてきた失敗や無意味な発見や気づき、そのちょっとした差の積み重ねが、今の自分を造っている。
それは誰にでも自慢できるし、自負できる。
そのことが無価値じゃない、と信じられる、信じたいんですね。
人は自分独りじゃ頑張れない生き物なんですよ。
誰かの役に立つことでしか、自分の価値を信じられない、だな。
創作は孤独な作業がぜひ必要なんだけど、孤独なだけじゃ行き詰まってしまう。
凡人だからね。