現代詩の世界と、純文学小説の世界またはエンタメ小説の世界の、相違点を | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

太宰治賞向けの原稿は、3枚のままで、

父として、いや、誤変換(笑)、遅々として進みません。

でも、構想だけは、どんどん湧き出てきます。

それだけでも、ありがたいことです。


経験上、20枚あたりまで書き繋げれば、作品世界が出来上がって、

人物たちがある程度、勝手に動くので、楽になることがわかっております。


今は、我慢で匍匐前進です。


 

ところで、

江國香織さんの長編『去年の雪』は、短編のような書き方なんですが、すごく読みやすく、飽きがこない。

短所としては、人物を掘り下げたから生まれる深みや、擬似体験的な満足感に欠ける気がする。

また読み始めたばかりだから、全然、確定できないけれど。

 

 

 

また、藤野可織さんの芥川賞作品『爪と目』の冒頭の視点の不気味さ、その不穏当な面白さがよくわかった。

前は、その面白さが全然わからなかったんだよ。

今、思うと、不思議だ。

なぜなんだろう。

なぜ、この面白さがわからなかったんだろう。


たぶん、書き方のスタンダード、正常を体得、認知・認識した上で、読んだからこそ、わかったんじやないかな。

つまり、異端を不穏当に描写することができる凄さは、正統を理解しておかなければならかったんだ。


たぶん、この不穏当さは、そうした原理を完全に意識しているか、

逆に、理論をすっ飛ばして、感覚的に小説書きをマスターしているか、

そのどちらかじゃでないと書けないんだろうね。


で、今の僕になら、これも自己流にアレンジして書けるはずだ、なんてね。

 

こんな風に表現を開拓する目で見ると、純文学小説の世界って、

その発想と展開は現代詩の世界に似ている気がする。

ただ、現代詩からアピローチするには、散文感覚と小説の装置としてのややこしい設定理解が必要。

これって、煩雑なんだよね、新たにルールを覚えなおさないといけないから。


詩人って、我儘で偏屈、自由な人が多い。(僕もだ)

だから、そんな煩雑な設定理解してまで、詩人は逆流して行かない。

そう。

だから、小説世界へはほとんど行かないんだ。

 

また、エンタメというかストーリー展開メインの小説世界の住人は、この現代詩的なややこしい世界が、また違う意味で煩わしく感じると思う。

常識人が多いから。

だから、純文学の世界へは行かないんだな。


僕は、現代詩とエンタメ小説の、両世界の住人だからこそ、その世界へ入る道の狭さが分かる気がする。

 

そこは、大人の知的で、かつ感覚的な遊び場なんだな。

中村航さんのレクチャー以来、まだ1年経ってないけど、

自分がこの10月末から11月にかけて、急速に成長している。

なんとなくだけど、そんな気がする。


単なる気のせい、錯覚なんだろうか。


今日は午前中が仕事です。