太宰治賞向けの原稿は、3枚のままで、
父として、いや、誤変換(笑)、遅々として進みません。
でも、構想だけは、どんどん湧き出てきます。
それだけでも、ありがたいことです。
経験上、20枚あたりまで書き繋げれば、作品世界が出来上がって、
人物たちがある程度、勝手に動くので、楽になることがわかっております。
今は、我慢で匍匐前進です。
ところで、
江國香織さんの長編『去年の雪』は、短編のような書き方なんですが、すごく読みやすく、飽きがこない。
短所としては、人物を掘り下げたから生まれる深みや、擬似体験的な満足感に欠ける気がする。
また読み始めたばかりだから、全然、確定できないけれど。
また、藤野可織さんの芥川賞作品『爪と目』の冒頭の視点の不気味さ、その不穏当な面白さがよくわかった。
前は、その面白さが全然わからなかったんだよ。
今、思うと、不思議だ。
なぜなんだろう。
なぜ、この面白さがわからなかったんだろう。
たぶん、書き方のスタンダード、正常を体得、認知・認識した上で、読んだからこそ、わかったんじやないかな。
つまり、異端を不穏当に描写することができる凄さは、正統を理解しておかなければならかったんだ。
たぶん、この不穏当さは、そうした原理を完全に意識しているか、
逆に、理論をすっ飛ばして、感覚的に小説書きをマスターしているか、
そのどちらかじゃでないと書けないんだろうね。
で、今の僕になら、これも自己流にアレンジして書けるはずだ、なんてね。
こんな風に表現を開拓する目で見ると、純文学小説の世界って、
その発想と展開は現代詩の世界に似ている気がする。
ただ、現代詩からアピローチするには、散文感覚と小説の装置としてのややこしい設定理解が必要。
これって、煩雑なんだよね、新たにルールを覚えなおさないといけないから。
詩人って、我儘で偏屈、自由な人が多い。(僕もだ)
だから、そんな煩雑な設定理解してまで、詩人は逆流して行かない。
そう。
だから、小説世界へはほとんど行かないんだ。
また、エンタメというかストーリー展開メインの小説世界の住人は、この現代詩的なややこしい世界が、また違う意味で煩わしく感じると思う。
常識人が多いから。
だから、純文学の世界へは行かないんだな。
僕は、現代詩とエンタメ小説の、両世界の住人だからこそ、その世界へ入る道の狭さが分かる気がする。
そこは、大人の知的で、かつ感覚的な遊び場なんだな。
中村航さんのレクチャー以来、まだ1年経ってないけど、
自分がこの10月末から11月にかけて、急速に成長している。
なんとなくだけど、そんな気がする。
単なる気のせい、錯覚なんだろうか。
今日は午前中が仕事です。