今日は、月に2回ある、リアルの詩の教室へ。
今期は、今日を含めて、あと2回。
ここは受講生に、同じ兵庫県現代詩協会の方々が数名いるので、
その効果には作品の創作力アップ以外に、その方々との人脈作りに半分なっている気もする。
たまたまなのかな、今年は星占いに仲間作り、とあって、そんなんないよ、と思っていたのに、
結果的に、こうした詩の教室以外にも、あちこちで詩の活動へいっぱい参加して、
気がつけば、この1年は、急激に詩の関係の仲間作りになっていた気がする。
僕は、小説も含めて、同人誌には参加をお断りしているので、
(あっでも、児童文学は同人誌『季節風』の購読会員になっているか。でも、あれ読むだけ会員でオブザーバーですから)
そんなつもりがなくて、一人孤独に詩を作っていたはずなのに。
不思議です。
11月も、もう20日なんですよね。
焦ります。笑
太宰治賞は、12/10締め切りだから、ほんと余裕がないのに。
ほんと、まだまだ匍匐前進なんです。
今、やっと3枚。
でも、今までと違って、人物に時間を織り込むことができました。
パラグラフごとにまとめることもでき、1文、1文を詩と同じように、コントロールできています。
そうそう、こんな風に書きたかった。
いや、正確には、こんな風に、浮かんでくる「コトバ」と「コトバ」を繋げればいいんだ、と、やっとわかった気がします。
今までもちゃんと書けた時はあったけど、それってたまたまで大雑把だった。
あくまでも、主人は【ストーリー展開】で、文章たちは、その奴隷でした。
(エンタメ系は、そうならざるを得ない部分はありますから、全部、ダメと言っているわけではありません)
ようやく、そうじゃない。
詩の時と同じ、文章がメインで、それが集まって、何かを表現する感覚で、小説を書けています。
また、この前も書いたけど、
そんなまだ出だししか進んでなくても、詩を書くときと同じモヤモヤと進むべき方向性が漠然とでも浮かんでいて、
今回の作品をやっと具体案として書く方向性が見つかりました。
また、仕込み予定の〈企み〉を用意できました。
この二つを、何年も、いや10年、いやいや、小説ってなんだろう、と悩んだ’11年に旧:京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)の文芸コースに在籍した頃から、ずっと探してたんですよ。
今回の太宰治賞の応募作で、作品化できなくても、3月に控えている他の純文学賞で作品化すればいいので、
そう思うと、すごい進歩がありましたね。
その作品化の具体案も、日々、刻々と、いい意味で変化、変容しているので、逆に戸惑っている現状です。
書くこと、つまり作品作りの場でしか、気づけない現場感と現場勘もあるので、
早く現場に入るべきなんですが、まだまだです。
現場での力は美術作品を何十年も作ってきた経験値と創作力なんですね。
そこで働いているのはたぶん、こうして文章を書いている左脳感覚がメインな平静なときとは違う、右脳メインな創造力なんでしょうね。
少しだけ、現場勘も出てきました。
ともかく、今、アニメ「葬送のフリーレン」を観ていても、
その過去の時間の積み重ねや、主人王たちの心の揺らぎが〈物語的効果として【見え】たり〉しています。
「葬送のフリーレン」って、過去と現在の話なんですね。
通常のファンタジーより深く、純文学的には、そうした喪失した戻らない時間を描いているからなんでしょう。
おそらく、僕が書きたいテーマや世界観も、そこにあるので、ビビットに反応するんだと思います。
なんか認識と知見が、どんどん加速して高みに運ばれていく感覚もある11月です。
不思議です。
ここで、勝負しないと、いつするんだよ!