今日は仕事が臨時のお休みになりました。
で、朝から10月10日に、宝塚市立図書館でやるブックトークの資料やら、
10月から始まる詩の教室の提出書類やらを作っていた。
やっぱり、詩だと、自分の作品の何処が悪いかの構成や語句の余分な箇所が、一目瞭然でだ。
当然、推敲もすらすら容易だ。
もちろん、最初からそうだったわけじゃない。
気がつくと、いつの間にかできるようになっている。
正直、セミプロぐらいのレベルにはなっていると思う。
あとは、ちゃんとした賞を受賞して、実力を証明するだけだな、と自惚でなく考えている。
それでも、いま、詩の方へ専念するのは逃げになっている。
実際、朝からの費った時間は、楽な方への逃げだった。
どうして、同じことが小説でできないのか。
相変わらず、例の〈ストーリー展開の呪縛〉が邪魔をしているのか。
小説を、才能主義的な神格化してしまっているんだろうな。
1回で完成させるべきものだ、と。
詩は二度三度、推敲して劇的にいいものに変貌する時があるのに?
小説はそうじゃいけないの?
なぜ?
さあ、長編児童文学新人賞の推敲をしよう。
もう今日しかないのだから。
できることを精一杯。
失敗でも構わない。
挑戦すること自体でしか、評価が舞い降りることはないから。