この前は、某オンライン児童文学教室でした。
この夏季はともかく、普段は午前の仕事を切りあげると、大急ぎで帰宅して受講してました。
教室も、あと1回となりました。
正直、言って、受講して良かったのかどうか、わかりません。
「ここは、こんな形もなんだ」というので全てです。
もちろん、一人で創作しているよりは、刺激もあるし、反対意見を多く聞けるので、その点では収穫はあるし、
また、ここは教室用に、他の児童文学書籍を読んで感想を言い合ったりするので、
それはそれで読む義務が発生して、メリハリにはなっていました。
むしろ、後者の課題の方が勉強になりました。
何より提出圧力はないと、書きませんから。
ただ、ここは基本、昔ながらの、書け書け式の自力更生型の教室なので、
これでは受講生が何かきっかけを得て、飛躍的に成長する要素はないだろうと思います。
まさか新参者なので、そんな否定的な意見は言えません。
チラッとだけ、ポイントは説明しましたが、他の受講生の方々が果たして、どうお聞きになられたのか。
僕には、全く分かりません。
まあ、今まで受けてきた小説系の多くの創作教室が、この書け書け式の自力更生方の言い放しでしたからね。
そうした、個人の才覚・才能だけで書く教室が一般的なのだ、と思います。
先生からの、こういう風に書いたら、と提案型や、
ここをこうしたら新しい可能性になるね、と法則提示型の教室で、
かつ有効性のあったところは、
今まで、短期・長期、20個近く受講した中で、僕が知る限り、たった4つでした。
先生からの、ちょっとした工夫点や、気をつけるべき失敗ポイントが多くお教えいただきました。
そういう教室では、受講生の方からも、活発に工夫点を開示して議論していました。
そのうち、3つはもう無くなっています。
そういう意味では、教室に出会うのも、運だし、巡り合わせで、宝くじみたいなものだと思います。
(個人的に、スピリチャルですが、シンクロニシティになっていると思います。
何より、少しずつ、その変化と発見、出会いは加速しています。
ここも、そのシンクロニシティの一つで、ただし、僕のためというよりも、他の受講生の方のためだったんだ、
と推測しています。
以下に書く、岩瀬成子さんへの気づきのアシストの役割はありましたが、
それって、貴重ですが、主体は完全に僕が99,9%で、教室は「まつりちゃん」を読ませた、単なるきっかけの一つに過ぎず、
0,1%ほどの貢献に過ぎないですよね。こらこら。)
また、ここで、たびたび触れている岩瀬成子さんの作品も、もう15年前ぐらい以上は、「凄い」という認識はできても、
じゃあ、どこをどうトレースできるのか、ほんと分からないまま、15年が過ぎていましたから。
北斗神拳奥義のように、色々な強敵との死闘の中で、教室での学びも含めて、自力研究の、たくさんの積み重ね体得したものがあるから、
トレースできる部分がわかってきたように思います。
岩瀬成子作品における、人物を巡る渦。
それを主人公だけでなく、副主人公や通りすがりの人物にも設定し、ぶっつけ合う表現手法。
それが、岩瀬成子さんの魅力・マジックの一端だと認識しています。
問題は、それをどう体得・トレースするか、でした。
そこに、15年という年月の様々な経験値(詩を書くというのも含めて)が必要でした。
その具体的な秘訣は、ここで何度か、申し上げていますので、触れません。
この『まつりちゃん』(前に読んだことはありました。今回、指定図書になったので、細か分析読みしました)は、連作短編なので、
上記の、ぶっつかり合う人物の生き様の渦の様子がよく分かります。
中・長編だと、人物がたくさんなので、分かりにくいんですよね。
また、それこそストーリーが展開するので、それで人物の「生き様の渦」が「見えなくなって」しまいます。
特に、この第2番目の、「たまご」はすごく参考になりました。
まるで、一篇の現代詩であり、象徴詩のようですよね。
あと、岩瀬マジックのトレースには、僕にはそうできない原因となる〈ストーリー展開の呪縛〉、
その解除の方が、はるかに難敵でした。
なんせ、今も、それと戦いながら、微妙な緊張感と均衡のもとに書いていますから。
油断すると、僕はすぐその呪縛に囚われてしまいます。
人物の描写や、ぶっつかり合いが単なるストーリー展開に含まれてしまい形だけになってしまうんですね。
岩瀬さんの作品はそうじゃない。
ストーリー展開に一部でありながら、シーン、シーンが全て、生きている。
凄いと思います。
8/31の締切へ向けて、長いけれど短い戦いを続けなければいけません。
岩瀬さんに、一歩でも二歩でも近づきたいな。