ここ2・3日、ずっと取り組んでいる、芥川賞作家の吉田修一の短編小説分析。
ええ、ちゃんとブックオフへ行って、紙では3冊目の『女たちは二度遊ぶ』を買ってきました。笑
ついでに同じ、吉田修一の短編集『キャンセルされた街の案内』も買っちゃいました。
でもね、これ全く読んだことがないけど、題名だけは見覚えがあって、この幾つもの部屋にある積読の山(おい! おい!)の、どこかに埋もれている気がします。笑
で、その『キャンセルされた街の案内』の冒頭作品「日々の春」を熟読して、構造分析読みする
ふむふむ、やっぱり形式段落のまとめ方と、プロット因果関係を表す文がエピソードとして、無数の小山を成している。
その積み重ねを楽しみながら、主人公たちの人物像が浮かび上がる。
やっぱりね。
キャラクターの面白さだし、ところどころ洩れる世界観が面白い、と感じさせる。
今回は、ちょっとした〈企み〉も置いてあるから、なお読後感を満足させるんだな。
ほんと、吉田修一は、かつての〈中間小説〉、純文学的に人間描写の深さもあるし、エンタメ的大衆文学の面白さもあるという小説の名手だと思います。
いや、このポジションの人、江國香織とかもそうなんですが、いても作家固有名の特徴になってしまっているので、
目立たないんですよね。
たぶん、これだけ明確かつ感覚的にも構造分析できたら、自分の小説創作へ転用できるはず。
今回の気づきは、自分の創作歴史レベルでは、久々の大ヒットで、画期的なものの一つにカウントできそうに思います。
きっと1段階以上にブレイクスルーできる確信はあります。
でも、皮肉なことに、この元になった自分の吉田修一論は、すでに’17年4月には98%以上書き上げてたものなんですよ。
残り、わずか、2%ほどの知識がなかったんですね、当時は。
この、小説の3要素感覚「キャラクター・ストーリー・世界観」の理解は、去年、小説家の中村航さんにご教授いただきました。
自分がストーリー展開の呪縛に囚われている欠点も、薄々はわかっていたものの、明確に認識できたのは、この3要素を教えてもらった後です。
そこから逃れようと悪戦苦闘した、この一年間の経験があったから、改めて、吉田修一小説の力に気づけたんだと思います。
そして、詩を行分け詩、散文詩と両方書き続けた感覚も、その発見には一役買っているでしょうね。
三角みづ紀さんや、小池昌代先生の詩の講義での感覚もね、きっと助けてもらってるでしょう。
今の僕には、詩と小説の文体の、点線と実線が見えますからね。
これは小池昌代先生の論考と教室での詩の知識の賜物です。
で、ついでにこの吉田修一の文体感覚のままで、
自分の好きな作家たちの作品を比較して、構造分析読みしてみました。
すると、大好きな山下澄人『ギッちょん』は外れ、大幅に違うから、わかりにくい。
湯本香樹実『春のオルガ』はドンピシャで、当てはまって、その構造が透けて見える。
次の、井戸川射子さんの『ここはとても速い川』もドンピシャはまって、同じく構造が透けて見える。
以下も、これは予想通り。
しかも、これ、中也賞の詩集『する、されるユートピア』の散文詩と同じ書き方と同じだから、と思って、
そちらの詩も構造読みしてみる。
ああ、と体感でき、言語感覚がわかる。
スッスーッと自分の中に入ってくる。
その言葉のリズム、語感を味わう。
うんうん、そうそう、そうなのか。
井戸川さんの、一見、言葉の洪水のような饒舌文体も、プロットと合わせると、こんな感じなのだ、と思う。
きっと、いくら構造を理解したって、100%正確に真似ることなんてできないけど、
言語ってものは、もともと借り物の不完全なもので、それぞれに方言があって自然とそれに染まるように、
創作文体も、〈自然と〉〈感覚的に〉習得するものだ、と僕は思っています。
だって、そもそも、僕自身が7年前まで、詩が書けなかったのが、ある時、構造がわかったら書けるようになったのですから。
無論、ゼロから書けるようになったのではなく、その前に小説を書こうと9年間ほど、悪戦苦闘の文章修行を重ねていたからなんですよね。
自分の、気づいていた小説の文章構造の理解と感覚を、そのまま詩へ〈転用〉しただけなんです。
今、僕の中には、この16年間に自力と創作教室・大学の学びで、小説、詩、俳句、川柳、短歌を修行した言語体験、感覚がストックされてます。
意識してる分は、転用できますが、無意識分は勝手に出てきます。
行けるところまで、行こう、と思います。
今日は、午後、大阪で、若い詩人の方々と会っての合評会です。
初めての方が多いので、どんな〈学び〉ができるか、楽しみです。