不思議だねえー。ほんと不思議 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

このブログ、出来るだけ毎日、書くようにしている。

自分でも、よくネタがつきないな、と思うけど

特に、ここ7年近くは、

ほぼ日記状態。


文学の創作意識やスキルは、年々確実に上がってるんだけど、

詩は、ともかく小説・散文系は上達しても上達しても、まるで届かない感覚がある。


詩は、7年前に偶然、書き方を見つけて、

それこそ倍々ゲームのように上達してきた。

これはこれで、かなりのレベルに達したという自負はあるけど、

あと一歩、何か足りない状態だった。


この4月以降、詩の教室三つを受講して、特に小池昌代先生の教室のおかげで、

なんとなく次の段階へ進む手掛かりが小説との違いで、得られた気がしている。


ところで、昔の自分が分析した研究レポート(中には、

本当に通信の大学へ出した文学研究のレポートもあったりします。笑)を読んでいると、

「へぇーっ、この人、面白いこと言うよね」と過去の自分に感心してしまう。

すっかり忘れている〈再発見〉があったりするんですね。


で、'17年に書いた吉田修一論を読み返していると、

いま、小池先生の『現代詩手帖』'23年6月号とも合わせて、ご指摘する小説と詩の、実線、点線感覚と、合わせると、

すごくわかりやすいと思ってしまったことがありました。


174月に書いた、芥川賞作家の吉田修一の短編集には【物語るまとめ意識】がある。


それと、直近の小説の実線・詩の点線感覚を融合すると、

小説には、監督やナレーターと、それとは別の俳優・演者感覚の追体験パートが混在している。


結果、小説は実線なのに、点線で跳んで、書かないといけない。

詩の点線の省略とは違う時間的な跳びがあるからだ。


それは、映画監督が、時間を飛ばして、映画を進行させるようなもの。


対して、戯曲って、演者意識だけか。

詩は対象を描写もするし、追体験させるけど、演者の追体験というより、カメラワークや音響設備によるものなる気がする。

それって、【物語る監督】感覚が強い気がする。

小説で今、苦慮している〈企み〉設定感覚やテーマの埋め込みも監督感覚だな。


つまり、僕が詩をスイスイと描けるのも、

この監督感覚のまとめ意識だけでいいからなんじやないかな。


でも、小説って、物語世界そのものを一から作る語りもしないといけないし、

演者に徹していればいいってものでもない。

舞台を作る美術監督もいるし、音響監督もいる、それらを一人で一度にやらないといけない。


究極、脚本があれば、俳優さんだけでいい演劇とは、だいぶ違うし、

詩人は、朗読だけですませられるから、戯曲に似ている。」


以上、6年前の、この吉田修一論の感覚と知見は、

詩の波に揉まれて、この6年間、半分忘れられていたことと合わせて、

こんな結論に、僕を導きました。


吉田修一さんの短編はこれです。