このブログ、出来るだけ毎日、書くようにしている。
自分でも、よくネタがつきないな、と思うけど
特に、ここ7年近くは、
ほぼ日記状態。
文学の創作意識やスキルは、年々確実に上がってるんだけど、
詩は、ともかく小説・散文系は上達しても上達しても、まるで届かない感覚がある。
詩は、7年前に偶然、書き方を見つけて、
それこそ倍々ゲームのように上達してきた。
これはこれで、かなりのレベルに達したという自負はあるけど、
あと一歩、何か足りない状態だった。
この4月以降、詩の教室三つを受講して、特に小池昌代先生の教室のおかげで、
なんとなく次の段階へ進む手掛かりが小説との違いで、得られた気がしている。
ところで、昔の自分が分析した研究レポート(中には、
本当に通信の大学へ出した文学研究のレポートもあったりします。笑)を読んでいると、
「へぇーっ、この人、面白いこと言うよね」と過去の自分に感心してしまう。
すっかり忘れている〈再発見〉があったりするんですね。
で、'17年に書いた吉田修一論を読み返していると、
いま、小池先生の『現代詩手帖』'23年6月号とも合わせて、ご指摘する小説と詩の、実線、点線感覚と、合わせると、
すごくわかりやすいと思ってしまったことがありました。
「17年4月に書いた、芥川賞作家の吉田修一の短編集には【物語るまとめ意識】がある。
それと、直近の小説の実線・詩の点線感覚を融合すると、
小説には、監督やナレーターと、それとは別の俳優・演者感覚の追体験パートが混在している。
結果、小説は実線なのに、点線で跳んで、書かないといけない。
詩の点線の省略とは違う時間的な跳びがあるからだ。
それは、映画監督が、時間を飛ばして、映画を進行させるようなもの。
対して、戯曲って、演者意識だけか。
詩は対象を描写もするし、追体験させるけど、演者の追体験というより、カメラワークや音響設備によるものなる気がする。
それって、【物語る監督】感覚が強い気がする。
小説で今、苦慮している〈企み〉設定感覚やテーマの埋め込みも監督感覚だな。
つまり、僕が詩をスイスイと描けるのも、
この監督感覚のまとめ意識だけでいいからなんじやないかな。
でも、小説って、物語世界そのものを一から作る語りもしないといけないし、
演者に徹していればいいってものでもない。
舞台を作る美術監督もいるし、音響監督もいる、それらを一人で一度にやらないといけない。
究極、脚本があれば、俳優さんだけでいい演劇とは、だいぶ違うし、
詩人は、朗読だけですませられるから、戯曲に似ている。」
以上、6年前の、この吉田修一論の感覚と知見は、
詩の波に揉まれて、この6年間、半分忘れられていたことと合わせて、
こんな結論に、僕を導きました。
吉田修一さんの短編はこれです。