昨日は、二つのオンライン受講している創作教室が、最後の授業でした。
一つは、歌人の岡野大嗣さんの短歌教室で、朝日カルチャーセンターのもの。
あと一つは、児童文学者協会のオンライン創作教室で先生は、作家の升井純子先生。
どちらも、半年ではありましたが、目から鱗を落とさせてくれて、
岡野さんは、僕自分の感性を鍛え直し、また、メモの種という最強の無意識活用ツールを教えていただけました。
何よりも、無駄だと思って捨てていた感覚にこそ、
本当のオリジナルな断片があることに気付かされましたこと。
これは、短歌というよりも、
僕の現代詩を作る際の最強の武器となることは、火を見るよりも明らかで、とても感謝しております。
自分の進歩を妨げる最大の敵は、自分であり、
また、最大の協力者は、自分なんだな、と感じました。
これからは、見捨てていた、もう一人の自分達を拾い上げつつ、拡大してゆきたいです。
さて、今日の本題は、児童文学教室の方です。
升井先生からは、読み手へのどうアピールするかを理論的にしっかりと植え付けていただきました。
基本、児童文学の作品・童話は、大人の小説よりも、読み手ファーストの立場が必須です。
それは僕には、全く欠落している感覚で、別の先生からもたびたびご指摘いただいても、どうにも直しようがない欠点でした。
それが「着地点」という感覚を、先生の紙メモ形式により、知識ではなく、感覚として、十二分に僕の中へ浸透させることに成功しました。
「着地点」とは、これも、このブログでなん度か言及していますが、
説明すると、「着地点」とは、各章ごとの、そして、最終的な作品全体の、「テーマに近いもの」や、さまざまな「伏線や設定の答え」というものだと理解しています。
こう書くと、ごく当たり前のことなんですが、作品を執筆中に、それを自作で意識しながら創作することが僕にはどうしてもできなかったんですね。
他人の作品を見れば、ああ、これが伏線、これが着地点かと客観的にすぐわかるんですが、
自作だと何故か不可能だったんですね。
今はやっとできるようになって、これも、この升井先生のレクチャーと、(別の丘辺先生の)四枚小説・掌編書きの実践成果だろうと思っています。
(片方だけだと苦しかったかな。理論と実作、この両輪が要ります)
この「着地点」感覚は、ほんとわかってしまって、心の中に根付いたら、忘れないものなんですが、
なぜ、過去、できなかったのか、自分でふりかえってみました。
①いつもストーリーを展開させるに必死で、全然余裕がなかったんですね。
なぜ、余裕がなかったのか。
ストーリー展開が小説の書き方だと呪縛されてたこと。
いや、真髄は「世界観」なんだと理解できたこと。(中村航先生のおかげです)
②なぜ、ちゃんとコントロールできるようになれたのか。
自分の長所でもあり、欠点である「発想の広がり」で物語を書いていくので、どうしても詰め込み過ぎになってしまう悪癖があったからなのでしょう。
これも「着地点」感覚により、付属的にコントロールできるようになりつつあります。
ですから、いい意味で、ドミノ倒し波及して、自分の構成力が急激に増している実感が本当にあります。
③また、講座の最後に、受講生それぞれに対して、先生がその長所を褒めてくださりました。
自分に対して、その「発想力の広がり」は他人に真似ができない、長所なので、
短所を改めることよりも、長所をぜひ伸ばして欲しいと言われました。
素敵な和製ファンタジーを書いて欲しい、とも言われ、伊藤遊さんの作品を勧められました。
伊藤さんは何作か、昔、読んだことがありますが、
確かに気質や作品世界は、僕に通じるものがあります。
もう一度、読むべく買ってみました。
それと、講義中に出た、岡野太子さんの童話が載った「飛ぶ教室 62号」ですが、買って、読んでませんでした。笑
以上、孟母三遷の教えではないですが、
天才も凡才も、いい先生に就くことが上達の秘訣ですね。
ただそこからは、序破急ですね。