昨日,一昨日と、せっせと絵本テキストの分析も、持ち帰り仕事、掌編用の創作をやっておりました。
どれも中途半端な出来具合で、持ち帰り仕事が一番進んだけれど、
それも完全には仕上げなかった。
さて、一番楽しい絵本テキストをつらつらと解析していると、
やっぱり、自分の物語には、「絵」が一番似合うな、と感じました。
ここでも、何度も書いたように、
そもそもが、ぼくの物語はアート・アニメーションや絵本の延長線上に出発しております。
たまたま、童話、児童文学、小説へと発展してたり、
たまたま、詩を書けたりしておりますが、
出発点は、絵のない絵本なんですよ。笑
僕自身は、ずっと小説や詩を読み続けていたり、純文学からファンタジー、SF、ミステリー、児童文学、果てはストーリー・マンガとなんでも好きなんですが、
その好きで研究していた「根」からは直接、芽が出て、花を咲かせたわけではございません。
ですから、無理に、そちらへ動こうにも、狭いルートを通ってでしか到達しないし、
両者は分つのは不可分でありながら、容易く一致はしないようです。
ですから、絵本研究や児童文学研究を、梅花女子大学の講座を始め、何十年とやりましたが、
やった分だけ、いまだに幼年文学を描くのは苦手です。
例えば、あまんきみこさんの作品、好きなんですが、絶対に資質が「違う」と思ってしまいます。
賢治や南吉なら、少しアプローチできそうですが。
また今回、改めて、絵本テキストを解析してみると、
僕が書けるのは絵本テキスト文学(?)であって、幼年童話ではないな、としみじみと思いました。
たぶん、出来るのは、《絵本+まどみちおさん的な童謡詩+谷川俊太郎的な子ども向け詩》からのアプローチだったんだな、と気づきました。
それって、結局は、自分がもともと持っている気質や要素であった気がします。
その意味で、他人からどう期待しても、その人の願いを聞き入れることはできません。
他人にそれを期待するのなら、ご自分がなれるように変わるべきでしょう。
少なくとも、僕は自分が自身の望むように、変わる努力をずっとしています。
ですから、自信を持って、それをお勧めします。
さて、今回の絵本テキスト大賞の絵本でも、絵的に一番シンパシーを感じるのは、
アニメーション作家の山村浩二さんの時間表現をたくさん含んだ絵なんです。
そう、自分がアート・アニメーションを作っていた感性が、
絵本テキストにも応用できそうだな、と感じました。
それらは、純粋に文字だけで書く物語感覚とは明らかに違いました。
なんだかぐるぐると螺旋階段のようにループしつつ前へ進めたがっている神さまの計画を、
ふと感じとれた気がしています。
きっと、2年後か、3年後に、再び絵本の方で絵本を描くだろうな、と予感を感じとりました。
僕の中で、封印した絵心と入れ替わりに、文学へ突っ走ってきた17年間でしたが、
その封印が解けるときも将来、あるんだな、と思いました。
いまだに、ボローニャ国際絵本原画展への出品票を捨てずに持ってますからね。笑
これが時間表現を含んだ、アニメーション作家の山村浩二さんの絵のついた絵本です。