昨日の詩の創作講座と講座学習歴の話の続きです。
僕の、このブログを長く読んでいる方には、似たような話はしているので、
適当にスルーしていただいて構いません。
僕が7年前に詩がふっと書けるけるようになった話は書きました。
小説的読解法を詩に転用することで。
それは細かく文章で説明するのは不可能なんですが、
「ずれ」「変化」「発見」などのポイントと書かれている表現を、その分析で普遍化する読解法です。
僕がほぼオリジナルで完成させました。
創作するときは、逆に自分自身の日常体験に、その「ずれ」などのポイント他を当てはめ、個別化する形を取っています。
その当てはめ方は、このブログの中で、個々に申し上げているので、読み取っていただく以外ありません。
本当は、ある方法があるのですが、それは身バレするので、ここに書けません。
でも、今、思うのは、もし14年前に詩が書けたなら、俳句や川柳や短歌やら、エッセイ創作教室までは手を広げなかっただろうことは、確実です。
それが遅れたからこそ手に入れたものであり、
また逆説的に、小説がちゃんと書けないから、詩が書けるようになった訳です。
つまり、今の僕の小説の書き方には100%、詩の書き方体験が反映しています。
そして、おそらく、短歌、俳句、川柳の創作体験も反映していて、かつ、エッセイの創作により、韻文と散文の相違点にまで思弁が到達しております。
また、付け加えれば、この文学創作以前の、長く続けた大学通信教育の映像撮影創作、アートアニメーション創作、ストーリーマンガ史研究も反映しています。
それらが、全て財産になっています。
マンガ・スラムダンクのラストでの、山王工業の監督の、「「負けたことがある」というのが、いつか大きな財産になる」の名セリフ。
負け続けた僕にとっては、一生、背負っていく十字架です。
失敗を、「財産」にしようとあがき続けた人生が、僕の生き方です。
「いつか」は、今だと信じて。
学びの本質は、自己を固定化せず、他者から、負けた自己から、知識から、学び続けること、だと思っています。
もっと高く、今よりも、もっと。
究極、ゴールは自己の生の終わり、死ぬまで、です。
たとえノーベル文学賞をもらおうとも、たぶん関係ありません。
きっと満足しないでしょう。
その点では、将棋の藤井竜王の気持ちは、僕にはよくわかります。
もっと前へ、もっと高く、です。