この'19年「ユリイカ」4月号の選評を初めて読んだ’19年3月は、
僕がやっと詩の書き方がわかって、ちょうど某新聞文芸への投稿を始めたばかりの頃でした。
ですので、井戸川さんの受賞の言葉を読んでも、審査委員の選評を読んでも、
今、思えば、全然わかっていなかったんですね。
不思議です。
今、井戸川さんの小説も含めて、全く違って読めます。
井戸川さん本人の受賞の言葉で気になったところを抜粋します。
「気持ちを言葉では伝えきれない(略)思い出の共有は? なくなっていってしまう感動たちは? 抱き合うだけでは伝わらないから、単語を並べるだけでも意味はあります」
自註:書かないと残せない感情や思い出。
それって、岡野大嗣さんと同じことを言っている、と感じました。
今、この瞬間の自分を残すこと、でしょうか。
また、この井戸川さんの言葉の「なくなってしまう」思い出も、
どんなに必死で詩を書いても「単語を並べること」でしかない不完全さも、
今はすごく切実に分かります。
そして、
それらをすべてわかった上で、
それでも詩を書く「意味」と、
幾許は伝わるという確信も、4年経って、すごくわかります。
今なら。
詩とは、書いても伝わらない絶望を踏まえた上で、それでも伝えようとする行為なんだ、と思います。
この間までは、伝わると思って錯覚して、モヤモヤのささいな思いや枝葉を切り捨ててて、
〈大きな気持ちだけを相手にして〉満足していたように思います。
井戸川さんの散文詩も、行分け詩と同じくらい書かない、いや、書けないことを、
〈微細で、風の囁きのような、小さな枝葉のこと〉の思い出や感情の再現を目指して書いているんだ、と思ってしまいます。
でも、
それは不可能なことだという哀しさを持ちつつ、その同じ道をたどりたいな、と思います。
まだまだ自分が書けないことを、自覚しない、と。
そして、それはまだまだ伸び代があることも。
審査委員の選評は、ぜひ詩を書く皆さんにも読んでほしいです。
僕は、毎年、中也賞の選評を読みつつ思うのは、
結局、委員の人達は同じことをずっと求めているんだな、と感じました。
・井坂洋子
「モノローグの世界であり、思念のかけらを取捨選択して、情景や状況を間接的に浮かび上がらせる手法をとっている。文字化し得ない思いまで心に書き留めているかのような初々しい詩群であり、自分が大人になってしまう悲しみや諦めなどもにじむ」
・佐々木幹郎
「目の前にある小さな細部を見つめること、見つめる視線を見守ることを丁寧に、次々と描くだけで、ただ一人の悲しみの世界から普遍的な悲しみの世界へと、広げていくことができる。作者はそのことを徹底してやっているのだ」
・高橋源一郎
「単純な選択に思える言葉の一つ一つに、明白には書かれない「背景」があるように思えた」
・蜂飼耳
「作者なりのものの見方が言葉に置き換えられていく手つきを見せ、そのことが読み手に詩を読む体験をさせる」
もちろん、詩は、好きな風に書けばいいんです。
現代詩の言葉が暗号化した隘路にどっぷりの作品すらも書いていい。
求められているのとは、違うものを書けばいいんです。
でも、僕は、自分を高めていきたい。
書けないことを書くことで、自分自身を深化させたい。
それが僕にとって書くことですから。
いや、これまでの何十年間の読むこともそうだったんでしようね。
目に見える表現と、見えない表現。
こう書くと、ありきたりのものですが、ポエムも井戸川さんと同じく散文と韻文の狭間からアプローチしたいと思います。
そもそも、それが僕の日常ですから。
どちらも捨てられない。
いや、それどころか、川柳も短歌も俳句も、戯曲も。
あらゆる文学リソースが僕の宿命に繋がっていますので。
きっとかっこよく言えは、
トーマス・マンや、北杜夫の書いたような、額にある文学の呪いなんでしょうね。
だから、どんなに苦しくても、どんなに絶望しても、小説と物語から逃れられない。
それも自覚しています。
常に囁いてくる声。
これは違う。
書け。
これも違う。
書け。
そうじゃない、書け。
違う。
書け。
書かなくても、書け。
書けなくても、書け。
書けないのは、お前が悪い。
書け。
ただ、書け。
書けないんですよね、上手く。