昨日も、ずっとここで報告している、改稿作業中の児童文学作品の最後1章を前に、昨日から半日以上、足踏み中です。
このまま書くと、いつものストーリー展開の罠に嵌まっちゃうんですよね。
だから、書かないで、ひたすら熟考してました。
これって、とてもしんどい。
何せ、答えのない答えを探しているものですから。
で、気分転換に、昨日の午後は、神戸市の大倉山・中央図書館へ本を借りに行きました。
いつもは地元の分館へ送られて来るのを待っているんですが、
名取佐和子さんの面白いと紹介した純文学系作家の小沼丹の全集を、すこしでも早く読んでヒントにしたかったんですよ。
お目当ての全集は借りれて、ふとバイクのそばで空を見上げました。
僕は’04年ごろドラマ「世界の中心で愛をさけぶ」(主演:綾瀬はるか)、セカチューにすごく嵌まったんですよ。
あのドラマは、若き山田孝之くん、綾瀬はるかさんの名演技もさることながら、BGMも堤幸彦監督他の演出も毎回、神回の連続で、まさに奇跡のような素晴らしさでした。
去年(ここでも書きましたっけ、児童文学講座で、好きな物語を発表するために)、改めて、見直すと、途中、一瞬挟まれる伊豆の風景カットが実に素晴らしく美しいことに気付かされました。
俳句や短歌をやってて、よかったなあ。
日本の自然って、いいなあと感じさせるんでした。
青く澄んだ空や、綾瀬さんのほつれ毛や頬を渡る風がすごく印象的だったんです。
その空のことを、僕は思い出しました。
そして、この図書館で10代の頃、20代の頃、絵も描けなくて、もちろん、詩も小説も書けなかった頃のことを思い出しました。
何も、打ち込めるものがなかった頃のことを。
ひたすら本を読んでました。
ここで、この図書館で、何回も何百回と、空を見たなあ。
その若かった頃、何もできなくて、詩も書けなくて、小説なぞ一切書けなかった頃と、
老いさらばえても、いろいろなことができるようになった、今の自分を比較して、
すこしだけ褒めてやりたくなりました。
一時は、映像作品に凝って、街角を写真やムービーカメラを持ってうろうろしたこともありましたっけ。笑
名取佐和子さんの小説の結論まとめ術は、見えないものの可視化・発見のように感じています。
最後に主人公の一方からの世界観語りが相手(本当の送り先は読み手の心)に向けて語られ、相手の反応は深くは描写されないことが多い。でも、それは書かれてないんじゃなくて、読み手の心の中でしっかりと再構成されている気がします。
だから、こちらは泣きそうな感動を誘われるんですね。
まだチラ見しかしていない小沼丹の小説も、直接的には何も書かない。
淡々と事実が描写されて、名取佐和子の作為や企み構成とは全く違うのに、どこか似ている気がしました。
さて、原稿は現在81枚。
そこへ戻ります。
意地でも、従来の終わり方はしないつもりです。
読み手に任せる終わり方、従来のストーリー展開の囚われた視点からは、中途半端でいいんです。
それこそが迷宮・ダンジョンを抜け出す、唯一の正しい道だと信じていますから。