詩の公募コンクールには、他の分野のコンクールと同じく受賞する作品に傾向や詩風がある。
当たり前だ。
詩誌『ココア共和国 ’22年7月号』の招待エッセイに「竹之内 稔」名義で、その辺のことも書かせてもらったけど、
僕の中での大まかな分類で言えば、詩界では二つある。
自己感情の吐露や生活モチーフを主体とする、朗読的リズムも勘案する、抒情詩派と、
どちらかといえば、修辞や表現にこだわり、感情の吐露よりは心象風景の抽象的な描写や暗号的示唆に富んだ、象徴詩派だ。
前者は音楽的構成とも言えるし、後者は絵画的構成とも言える。
近代詩人たちは、中也にしろ、賢治にしろ、光太郎、三好達治などほとんどが抒情詩派。
その意味では、教科書で親しむ伝統的な詩が抒情詩なのは事実。
近代詩では朔太郎の一部と西脇順三郎が、後者の象徴詩派だと思っている。
中也の詩の中の暗号的な要素や、象徴的なイメージ詩も後者に属すると思う。
現代詩は、若い頃の荒川洋治が象徴詩の筆頭だろうし、荒地派でも鮎川信夫をはじめとする一連の詩人たちは象徴詩だと思う。
リアルな詩の教室では、9割方、抒情詩派です。
いや、場合によれば、僕以外皆さん、抒情詩派だったりする。
たとえ、先生が現代詩手帖賞を受賞されている象徴詩派であっても、
「〈現代詩〉は難しい。わからない」
と異口同音に仰られる。
つまり、その方たちの創られる詩(=抒情詩)と〈現代詩〉は違うと認識しておられるのだ。
僕の詩風は、両方の折衷案だろうか。
でも、抒情詩派からみれば、裏切り者で難解な〈現代詩〉に見えるらしい。
僕自身は、完全な自己感情吐露の抒情詩を創り人目に晒すのは、恥ずかしい。
だから、象徴詩の衣や鎧を着るのである。
さて、昨日、挙げた8月〆切分、三つのコンクールのうち、
完全な抒情詩派の巣窟(?)である伊藤静雄賞へ、出すのに、象徴詩はまずいだろう。
手持ちの詩篇を眺めながら、考えている。
ちょこっと改稿するが、いいレベルに仕上がらない。
詩と思想新人賞も、今ひとついいものがなく、去年、出したものよりも落ちるレベルだけど、
この作と思えるものを改稿・ブラッシュアップする。
出すことで満足しよう。
さて、埼玉文学賞は、
さいたま文学館から送ってもらった冊子3冊(「詩人 吉野弘」「さいたまの妖怪」「埼玉の文学散歩」)を読みながら、前々回、落選したものを参考に、
今から創ってみる。