投稿仲間の蘇武さんのツイートから、触発された話題で、散文詩についてです。
僕もしばらく前まで、ちゃんとした散文詩を体得しようと、
散文詩の名手とされる和合亮一さんや他の方の詩を読みまくり、
また『季刊 びーぐる』の散文詩特集号などを手に入れて、研究したことがあります。
特に、僕は自分が小説や児童文学を書くだけに、大いに関心があったのです。
結果は、よく分かりませんでした。笑
というか、なんとなく、こんな形でいいんだとか感覚はわかりましたが、
上手く言語化できませんでした。
でも、結果的に自分の詩風の特徴の一つに、散文詩風のパートを入れることが、
自然なものになってしまっているのは事実だと思います。
だって、『ユリイカ』にたまたま(?)TOP入選した詩は2つとも、散文詩と散文詩パートのあるものでしたから。
つまり、言語化できないものの、自分の詩では、
行分け詩と散文詩パートの垣根は低く、
自然な流れで、両者が混在するのが常態になってしまっています。
物語性のある詩を書きたい自分からしたら、それが普通なんですね。
ツイートでは、散文と散文詩の違いを言語化しましたから、
ここに再録します。
両者の違いは、散文にはポエジー(詩情)がなく、散文詩にはポエジーがある、でしょうか。
けれど、じゃあ、散文詩におけるポエジーの有無とは、どうなの、と問われれば、
これまた難しい。
散文詩におけるポエジーは、行分け詩よりも更に感覚的で、見分けにくい。
なんとなく言語を離れたイメージや感情、語感の中に存在する気が僕には、しています。
そるは、僕にとってはメタファーとアナロジー、見立て構造なのだと思います。
これは、僕にとって、異化文につながる、詩や文学そのものです。