昨日、新しい詩の書き方について、なんとなく分かった、と、このブログに書きました。
今日は、さらに、その〈分かった〉を詳解します。
どちらかと言えば、未来の自分に向けての独り言として。
せっかく、分かった〈秘訣〉だから、誰にも教えない、なんて、
せこい考えはありませんが。
なぜなら、感覚的で、すぐ消えてしまいそうなんです。
また何よりも、その〈秘訣〉って、昨日の岡本啓さんの言葉そのものですから。
「世界と、詩をもって付き合う覚悟」ですから。
で、問題は、「向き合う」ってところです。
きっと、詩人ごとに百通り解釈があるんだと思います。
僕は、自身を〈世界〉の一部として認識しながら、〈受け手〉をその〈世界〉自身を含めて、しっかりと認識すること。
そう解しました。
今まで、その認識が、作品として最初から持っていたこともあれば、
たまたま書いていて、その認識で書いたこともあります。
そして、全然、認識できずミニマムな自分だけへ書いて失敗したことは無数にあります。
つまり、今の僕には、非常に曖昧で感覚的なものなんです。
だから、少しずつ日常に埋もれて、また前に戻ってしまうことも多々あるんだと予想しています。
こうして、言葉にしていても、「書き手を認識して書く」という一般的な警句にしてしまうと、
今までさんざん、小説の技法書で見てきた手垢にまみれたものになってしまうんですね。
正直、今の感覚を3ヶ月後ですら、
保持している自信が全くありません。
果たして、3ヶ月後の自分が、このブログを見て、
その感覚を思い出せるかどうか…怖いです。
ここで一つ、僕が自分のためにつけている日記メモから、譬え話を引用します。
「〈世界〉とは何か。
岡本啓さんの言う「世界と向き合う覚悟」とは何か。
今までもモチーフとして〈世界〉を感じてきたし、そんな詩も書いて来たけど、そんな単純なものじゃない。
【読み手として、世界の誰を対象としてかいているか。誰を受け手として想定しているか】
ここまで、明確に認識していないといけない。それは宛て所不明の手紙に力が入れられないように、目的なしに手紙を書かないように、詩もも小説も〈受け手〉不明の作品が成功することはないのが当たり前だったんだ。
だから、失敗作しか、小説で書けなかったんだ。
使うモチーフである言葉は同じなのに、なぜ成功・不成功の作品になるか、それは言葉の組み合わせとも言えるが、言葉を制御する精神の問題じゃないか?
〈世界〉とは、自分の立ち位置でもあり、立ち位置のある〈受け手〉を想定したもので、二重の意味を含んでいる。」
果たして、この認識、感覚が答えなのか、どうかは、全く想像つきませんが、
この【世界対峙感覚】で、作品を書いてまることで、
自分の血として、肉として、血肉化するしか方法はない気がします。
頑張ります。