10/3の、兵庫県現代詩協会での詩人・高階杞一さんの講演会を聞いてから、
ずっと取り組んでいた《変容》詩。
どう書けばいいのか、なんとなく分かったような分からないような、の状態がここ10日間ほど、ずっと続いてました。
ふっと、
その正体がさっき、思いつきました。
いいえ、
無意識くんが教えてくれました。
それって、小手先のテクニックじゃなくて、
根本的に、感覚レベルまで自分の中に落とし込んだ〈感じ方〉の、
いや、身体性へまで刻み込んだ身体思想の問題だったんだ、と。
つまり、高階さんの詩の、空とかキリンとか朝とか、夢とかが縦横無尽に出てくるのは、
あらゆるものに神や命を見出す【汎神論】的な感覚にまで、
落とし込んでいるからこそ、高階さんの詩はその身体から出て来る言葉になっているんだろうな、と理解した訳です。
また、それって、
ある意味、宮澤賢治が岩手県に《イーハトーブ》世界を見出したのような境地・感覚なんだと気づきました。
そして、それらは僕の中にもある神道的日本的な感覚世界で、
普段は常識で押さえ込んでいるけれど、
日本文化の奥底にはずっと流れている鉱脈で、
それぞれの人ごとに違うけど、日本語を母語にする人の中にはある意味共通点のあるものなんじゃないかな、と達観できました。
高階さんが、講演会で「僕の詩の原理は【発見と飛躍】です」と仰った意味も、
電光のように理解できました。
常識世界からの飛躍が確かにそこにはあって、読み手は一緒に、
その汎神論世界を作品中で旅できているのじゃないかな、と。
実際、自分でその詩の作品世界を少しずつ、文字起こししていく過程は、
正に賢治の言った野や山や川のある所で、動物たちどころか電信柱さえも語っている言葉を書き取りスケッチしてきた〈心象スケッチ〉のように感じられたんですよね。
そして、恐らくは、
僕の今までの、妖怪やら子どもたちやら猫やらが登場してきた作品世界もまた、
不十分だけれど、そうした汎神論世界の一環だったことにも気づかされました。
(なんか、幸せの青い鳥を探したら、我が家に居ましたよ、みたいな展開になってしまいますが。笑)
でも、もともと賢治も高階さんの世界も同じように心惹かれていたのは、
同趣のものを僕が無意識にキャッチしていたからですから、当然の帰着なんでしょうか。
当たり前のことを、騒ぎたてているだけかもしれません。
試しに、その感覚で途中まで詩を1篇、書いてみましたが、
行けそうでした。
今まで、頭で理解していたのが、
身体的感覚的な通り道が開通したトンネルを通れるように、たどり着けることができました。
人間だけが偉い偉いで生きている世界じゃなくて、全てのものに魂を感じればいいだけだったんですね。
(古代の、万葉集のころのポエジー(詩情)って、そんな巫女的な立場から詠まれたものだったのでしょうか。
僕の中の、国文学的な知識たちもわらわらとやって来て補足します。
それら知識すらも、このゾーンに入ると言霊を宿している感覚があります。)
しばらく挑戦して、この感覚を自分のものにして、使いこなしてみたいです。
そんな作品世界を、次の詩集では埋めたいものです。
我が家の生御霊はお眠り中。
いつ撫でさしてもらえるかは、いつ風が降り、雨が降るなど同じで、神の領域で予測不可能ですから。