親族の死を悼んだ挽歌の詩作品。
「現代詩手帖」へ送りましたが、見事、落選。
でも、これだけは、どうしても入選レベルへ仕上げなければなりません。
もちろん、そうでなくてもいいんです。
でも、ダメなんです。
意地でも、その人の生きた証として書いたので、入選レベルとして完成させたいんです。
もしかしたら、もっと叙事詩風の僕の特徴らしい散文詩で書けば、なんとかなるかもしれない。
でも、これだけは、行分け詩でないといけない必然の表現理由があって仕上げました。
この形式で仕上げたいんです。どうしても。
最近、Twitterにも、以下の定義を呟かせて頂きました。
僕の中では、
「よい詩になるかどうかは、詩を自分だけの感情のゴミ捨て場、不満や嘆きの解消を目的とするか。読み手と共有するために書く視点が入るかの違いじやないだろうか。もちろん、いい詩は後者に生まれる。」
という思いが強くなっています。
詩とは、たとえ内容がプライベートでも、総体として何かしらパブリックなものであるべきだと考えています。
でも、この詩だけは、プライベート感で完成させたい。
そんな思いが強くて、パブリックとギリギリのせめぎ合いで、落選作を改稿しました。
選者も変わるので、もう一度、「現代詩手帖」へ送ります。
今度、落選したら、「ユリイカ」へ。
諦めません。決して。
この作は長すぎるので、「ココア共和国」や某新聞文芸へは送れません。
スキルだけでは書けない詩。
でも、スキルがないと書けない詩です。
また、もう一つ、書かなければならない作品があります。
旧・京都造形芸術大学(通信)文芸学部文芸コースで、共に学んだ学友のTさんの死。
それだけは、彼への挽歌として、文字通り、事実をベースとした短歌の連作で完成させ、これも出来れば、世に出したい。
もう20首ほどは素案を書き上げました。
雑誌「短歌研究」の新人賞が5月20日〆切で、まだ時間がありますので、そこへ出すつもりです。
ただ、こちらは本格的に短歌を始めてまだ半年も満たない人間の作品なので、現代詩的な異端の要素を折り込んで作ろうと思います。
これも、Tさんのために、落選しても、次へ応募するというように、何度も何度も短歌で挑戦し続けるつもりです。
きっと、小説では、同じ学友のじゅーりさんが仕上げてくれるでしょうから。