心斎橋PARCO「最果タヒ展」へ行ってきました。
カタログは昨日の「マーサ・ナカムラ展」が初でしたが、リアルに文学者の展覧会へは初出動となります。
昨日のマーサさんが詩として刺激的だとすれば、
最果さんは詩句または日本語について考え直したくなる展覧会です。
面白かったです。
多分、もともと最果さんの詩句と、現代美術的なものとの親和性があるからこそ、成り立つ展覧会だな、と感じました。
何よりも、京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)の通信洋画コースを卒業して、現代美術にも造詣が深いボクには、美術と文学の二重の意味でとても刺激的でした。(再入学で文芸コースも卒業してますが。笑)
以下、どう思ったのかの分析を記します。
敬体は客観的に書きくいので、常体の文体で。
会場に展示されているのは、主に現代美術的なインスタレーション(「設置」の意。空間そのものを作品として体験させるもの。)の形式で展示された詩篇・詩句の数々。
入ってすぐの展示場所では、アクリル板で彫られた透明な詩句がある。
それらは背後に壁に、グレーの文字影を映す。
また、四角の積み木状の箱に書かれた詩句は、縦に横に、はたまた、上下に文を連装・連鎖した鎖のように感じさせたり、
360度の輪っか状の円筒の内側に詩句が書かれてあったりする。
これらは、現代美術としては、至極当たり前の展示法、インスタレーションだけれど、
細かく最果タヒの詩句が連ねられると、何やら不思議な感覚を呼び起こす。
まるで、現代社会や現代人に掛けられていた呪禁や呪いの言葉を、詩人か具現化し書き出したかのように。
メインの展示会場では、正に現代美術的なインスタレーション。
吊り下げくるくると回る言葉と語句たち。
吊り紐の捻れが、日本語の捻れに変わる。
それは観るものを現代社会や、現代の我々の生活の捻れへと考え込ませる気がする。
もともと、最果タヒの詩句は、ある種の条件文のように予測性(物語性?)があるから、
こうした偶発的な組み合わせに向いているのではないだろうか。
さて、こうした《日本語の捻れ感覚》は、僕の中になかなか無いので、
逆に凄く惹かれてしまうようです。
僕の詩篇は、もっと単純で直線的なズラしなんですね。
これほど、細かく曲線的じゃないと、思います。
前に、池田伊万里さんの短詩型の詩篇に僕が惹かれたのも、
そこに、この最果タヒさんの《日本語の捻れ感覚》と同質なものを感じたからだと思いました。
たぶん、こうした人たちの作品を読み込んだり、分析したりする中で、
自分の中に、感覚が移入されてゆく。
そんな予感があります。
この文も、まだまだ考えがふかまりそうなので、また後日、さらに考察を加えた論考の形で、NOTEにまとめたいと思います。