俳句はやっぱりセオリーがあって、それを「勉強」する、いや、「勉強」できる文学なんだなあ、と。
今でしょうの林修先生が、三句作って、いきなり特待生1級なのは、
当然のことで、名人初段でも良かった、と思いました。
この場合の「勉強」って、東大生が得意そうな過去問対策なんですよね。
つまり、全方位に闘っている訳じゃなく、傾向と対策。
そして、スポーツでも、例えば、バドミントンでもジュニアの頃やってる子は、身体が自然に傾向と対策の経験値を保持しているから強い訳で、
なら、
初心者が勝とうと思えば、この時はこう来るの傾向と対策が必要なんですよね。
まずは、しっかりディフェンス。
スマッシュを警戒。止めること。
次に後ろに打たれたら、クリアでチャラに、と。
対策する、ということ。
で、きっと小説でも、詩でも同じはず。
本当に対戦している読み手・読者の相手は全く見えていなくて、
セオリーを作るのは、頗る難しいけれど。
バドミントンでは見えることが、
俳句では見えなくて(勉強すればできそうですが、その時間は僕にはありません。
勿論、俳句も最後の段階では、傾向と対策だけでは「勝てない」でだろうことは、自明のこと。)。
詩では感覚的に対応しているだけ。
小説では依然、五里霧中。
けど、そのセオリーを自分の中に育て、育むのが読解作業なんだ、「勉強」なんだ、と思っています。
先日の三田オープンカレッジは、上手く言えないけど、
その作品群からただならぬ「何か」を感じました。
それは、自分の中に育ててなかつた要素。
散文詩感覚にも繋がる部分もあるかな?
また、出された課題「『田園と都市』のテーマの詩を10月1日までに作り、送りなさい」というのも良かった。
その刺激を自分のものにする点でも、
自分にとって、すごく親和性のある題詠でした。
これについては、また明日、書きます。