前にチラッと書きましたが、
『文學界』2019年12月号の、町田康と伊藤比呂美さんの対談は素晴らしい。
小説と現代詩の本質的な違いにここまで深く迫ったのは、皆無じゃないか、と思います。
文学創作を志す人は、ともかく読まないと、一生後悔するレベルです。
例えば、詩について書かれた以下の箇所。
町田康「それから、現代詩を読んでいると、ちょっと作者が自分のことばかり言い過ぎてないか? と感じることも。人間って、あまり一貫していないというか、一人の中で納得できないことが同居している感じがあるじゃないですか。同じことを一貫して続けているように見える人でも、実はかなり矛盾があったりする。作家はそこのところを重々承知しているので、自分のことは一回置いとこうか、となるんじゃないでしょうか。小説は、自分を棚上げして書いているようなところがありあるかもしれないですね。」
そして、詩を書く際に、伊藤比呂美が「学生たちに「もっと自分のことを書け」とエンカレッジしているくらい」という意見に対しての、
町田康さんの次の批判が、納得です。
町田康「でも、そうすると、大体同じような内容になっていきません? 僕は人間は九割がた動物で、書くものだって、言ってもそれほどのパターンはない、と思うのですが」p170
また逆に、詩か描けるようになる箇所の伊藤さんの意見にも納得させられます。
ぼく自身が、4年前、急に詩が書けるようになったもので。
伊藤「学生たちにある程度自分を解剖させると、その後、必ず変化が起こるんですよ。「詩の門」みたいなものをくぐった感じというか。そうすると、もっと共感できる、人と自分をつなげられるような言葉を発見できるように成る。」
町田康「詩人になるには、1回その門をくぐらなあかんと。1回本当の心の奥底まで行かないと、外に突き抜けることができないわけですね。」
確かに「詩の門」かあったんです。
一度、くぐってしまえば、なんで皆んなこっちへ来ないんだろうって、不思議に思えるんですけどね。
さらに、小説の本質が、こう述べられます。
町田康「国というものの成り立ちには、神話みたいなものがあります。これもストーリーです。
ストーリーは「道」みたいなものなんです。歩いていて、急な崖があったら、それ以上もう進めなくなってしまきますよね。ストーリーが止まってしまう。だから、そこに橋を掛けたり、なだらかにして歩けるようにしたりする。それが「納得」なんやと思います。歌詞だって、道として無理があったら、やはり前に進まなくなってしまいます。だから、納得は必要不可欠なんです。
「文脈」と言ってもいいでしょうね。」
伊藤「因果みたいなもの?」
町田康「そうです。」p172
ただ、どれも小説って何だろう、と悩み抜いてきた経験があって、
初めてハッとさせられる文言なので、誰もが皆同じように感じられるかは保証できかねます。
矛盾するようですが、ここで町田さんがいう「ストーリー」を文字通りのストーリー展開の意味に僕は取ってません。
そうとると、間違いの無限ループに嵌ります。
「まず、物事の起源である「因」があって、そして、果を結ばせる作用である「縁」という関数がある。」と別箇所で仰ってます。
これも普段から僕の思っているところなので、納得なんです。
今、純文学系の作品に取り組んでますが、
ほんの数行しか書けてません。
苦しいです。
ただ産みの苦しみで、今度は違う書き方ができそうです。
頑張ります。