放送大学の、今期第1学期の単位認定試験の結果が出ていました。
「日本文学における古典と近代(’18) 」 ◯A
「文学批評への招待(’18) 」 A
「日本の近世(’20) 」 A
と言う結果です。
◯Aが90点以上、Aが80点以上ですから、よかったです。
裏技で、合否を知ろうと無駄な努力をして、わからないままで、
ふと正規の方法で調べたら出てきました。
やれやれです。
後半の第二学期は、「音を探究する」「生物の進化と多様化の科学」「日本美術史の近代とその外部」の3科目にしようか、
一つ減らそうか、迷っています。
出来れば、ひと科目につき、一つは詩や小説の世界観やモチーフを見つけたいと思っています。
さて、面白い記事を読みました。
雑誌『ユリイカ』2016年8月号です。
特集は「あたらしい短歌 ここにあります」で、買ったきり、あまり読んでなかったんですが、
詩人最果タヒさんと前衛歌人穂村弘の対談があることを気づき、読みました。
短歌がわかるというよりも、最果タヒさんを通して、現代詩の立ち位置と彼女の詩の秘密の一端が垣間見えて、非常に刺激的でした。
最果タヒさん曰く、
「自分が書いているのか、定型が書いているのかわからなくなったんです。(略)「怖い」と思ったんです。(略)定型で書くうえで一番いらないであろう部分が、自分が詩を書くうえで一番大事にしている部分だったりするから、削れない」p48
「「きみ」を多用するとか。でもわたしは詩のお客さんというよりは、わたし個人のお客さんに対して書いていて」p56
穂村弘さん曰く、
「小説のなかに出てくる"きみ"とは違っていて、短歌に出てくる"きみ"っていうのは相聞のにおいのする"きみ"なんです。」p53
「台書く傾いてるとか、手すりか剥げているみたいなそういうのを、僕は短歌特有の節回しというか、歌手の人がこぶしを回したり、ビブラートをかけたりするようなイメージで捉えている。」p56
「"人生日記"みたいなシステムを採用したために、短歌人口は増えた。現代詩人口がなぜ少ないかと言えば、それは選ばれた技術とモチーフを持った人がやるものっていうイメージがやっぱりあるからで(略)新聞の短歌欄なんてまさにそうで、孫が笑ったとか、入れ歯が不調とか、そういう世界。」p57
「青春とか恋愛とか死、どれも特別な心の状態だよね。それがだんだん人生の力に負けていく。(略)やっぱり若いとしは病気もないし財産もないし(略)あるのは未来のまぼろしだけ。(略)せのまぼろしが失われたあと、どうやって人生の重力みたいなものを言葉に乗せるのか。(略)つまり言葉は、例えば音楽のように完全には生身の重力から自由になれないってことなんだよね。」p58
以上のお二人の意見に対しての、
僕の思いはまた明日、書きます。