もちろん、短歌・俳句が大勢を占めているんですが、
中には、おまけで「詩」をつけてくれてたり、
著名な詩人が郷土にいるときには、ごく僅かですが、
その詩人の名を冠した単独の公募賞もあります。
回数がまだ1桁台のもあれば、もう何十回も重ねているものもあります。
でも、大部分のそれら詩の賞は、現代詩的な暗号化した、訳の分からない象徴詩的なものではなく、
近代詩的な抒情詩をベースにした分かりやすいものが入賞作品です。
たぶん、『現代詩手帖』に出すようなとんがった前衛詩人の方々は、
ここらへは地元でない限り作品を出さないだろうな、と思います。
逆に、普段、自分の感情をベースにした語り系の近代詩を書かれる方々が、
『現代詩手帖』を手に取ることは稀だろうな、と思います。
僕が行った京阪神三つの詩の教室でも、二、三〇代の若い世代以外は、
皆さん、「現代詩はちょっと…」「いやあ、分からない」と仰って、敬遠されます。
皆さん、あまり公募賞に出すことよりも、
自分の気持ちを謳い、最後は自分の詩集を編むことに目標と関心がおありのようでした。
たぶん、短歌や俳句の方は、公募賞へどんどん出されるイメージがありますが、
詩の方は自己完結性が高く、ある意味、シャイで、あまり、外へ出たがらないのでしょうか。
僕は小説創作の感覚があるので、公募してなんぼ、パブリックな評価を受けてみる。
たとえ落選しても、入選作も見比べることで、上達を図れる。
自己完結では、上達が分からない、というスタンスなので、
たぶん、僕の創作仲間である某くんたちも同じだと思います。
そんなこんなで、ともかく、
各公募賞の、趣旨を理解して、それに合致した詩を作ることを、
心掛けています。
自分の作りたいように作る詩もありますが、
それも、読んだ人が楽しめる箇所を必ず作るようにしています。
追記:
そう言えば、
詩人として、唯一生活できる大御所、谷川俊太郎さんが、登場したとき、
その求められる媒体に合わせて、詩を作る姿勢を大いに批判されたそうですが、
そうして出された詩がどれも批判した人を唸らせる高水準な作品ばかりだったので、
以来、表だっては批判されなくなった、と読んだことがあります。