敢えて、現代詩的な象徴詩を提出してました。
案の定、他の受講生からはよく分からないの声が続出。
比喩(メタファーを指すと思われます)が多過ぎるという苦情もありました。
たぶん詩誌『現代詩手帖』に載っているものに比べたら、
凄く分かりやすいメタファーだと僕個人には思われるんですが。
これで、分からない、と言われたら、
意味でなくイメージで繋げていく現代詩は読めないので、
『現代詩手帖』は、正にスパイの暗号書そのものに見えるんでしょうね。
先生からは、
「もっと分かりやすい詩を書くように、
表紙だけ立派な詩の本の真似をしてはいけない」
と叱られました。
うーん、仰ることはごもっともなんですが、
イメージして、自然と出て来るコトバが、
こういうものなんですよ。
僕にとっては、
詩のアナロジーとメタファーが、詩を書く面白さなので、
それが無ければ、散文でいいわけで、
やめられません。
そう。
今書いて、はっきりと自覚できました。
僕が思う詩とは、感情だけを素直に述べればいいというものではないんですね。
なら、散文エッセイで充分。
不完全な性質しかない言葉に、
表しきれない「モヤモヤした感情や思い」を表すためにこそ、詩がある。
そうそう。
詩が出来る瞬間には、
この「モヤモヤ」が何よりも必要なんですよね。
それって、
土日に参加した小説講座で、
寒竹先生の仰られた一番、身につけて欲しいのは、
「主人公の気持ちを一言で片付けない【想像力】と、その想像した感情をなんだろうと分析してみる【観察力】です」
という趣旨と、
考えれば、全く同じことでした。
とことん、得心が行きました。
頭ではなく、心の奥底から理解できました。
今期の、この教室に参加した時点で、
先生方の反応は予想されたものなんです。
それでも敢えて受講したのは、
近代詩的な抒情詩を佳しとする派の人たちの感性も、本気で身につけたい。
それも徹底的に知っておく必要があるな、と思ったからです。
先生の一語一語、意味を拾っていく読み方やその感覚を、
しっかりと自分のものにしようと毎回、メモしまくりですから。
次々回の合評作品は、比較的、近代詩的な抒情詩を出そうと思っております。
その次は、童謡も一度、出してみようか、と。
教室に行くからには、褒め言葉ではなく、
貶し言葉こそ必要です。
それが自分を飛躍させるヒントですから。