名前のない身体の使い方 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

引き続きバドミントンのような、小説創作のような、雑感話。

最近、僕は、ジュニアの子たちに、普通のバドミントン教室で教えるスマッシュやドロップなどの各種ショットを、
直接的には教えない、との話を書きました。

無論、ショットを打たせはしますが、
大事なのは、その時、身体のどの部位を使っているかの感覚を持たせることが大事なんです。

打ったり、走ったり、
自分では当たり前に出来ていることが、実は全然出来てないことを知ってもらうのが、第一歩です。

でも、これが難しい。

ときに、肩とか、肩甲骨とか、まだ一般的でない身体の部位を動かそうとさせますから。

「そんな事、しなくても、シャトルは腕で打てるよ!」
という顔で、不満そう。

人間、新しいことに拒否感を持つ場合が多い。
自分の身体は自分がちゃんと動かしてあると信じ込んでますから。

あの人が出来るのは才能で、自分がダメなのは才能がないからだ、
その方が楽なんです。

あるときは陸上部を指導している専門家にも走り方を聞いたことを伝えたりします。
やはり、蛇の道は蛇。
ポイントをしっかりと教えてくれます。

きっと、小説創作も、
文字書けるじゃん、話、書けるし、
そんな理屈、要らないよ、と、
正解を見逃してはいないかな。

きっと、一度、分かってしまえば、
なんて事はない、シンプルな原理を、見過ごしてる。
そう思うのです。

それを掴んだ人だけが、天才と言われるなんて、
僕は嫌だな。