引き続き『1973年のピンボール』 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

引き続き、村上春樹の『1973年のピンボール』を分析読みしている。

ここに、あまりにもマニアックすぎることは書けないから、
適当に薄めて、一部を紹介する。
読みづらくて、申し訳ない。

例えば、

①「二本のレールは太陽の光を鈍く反射させながら、重なりあうように緑の中に消えていた。どこまでいったところで、きっと同じような風景が永遠に続いているのだろう。そう考えるとうんざりした。これなら地下鉄の方がずっとマシだ。」


これは観察結果による描写。

そこから予測、予測への感想( 大体、うんざりしたり、やれやれと思ったり、諦念的。)、さらに、「地下鉄」という具体的イメージでの、もう一段階の連想比較、アナロジー感覚か。


②次に、双子の寓話。

その前半に、異和感に関するエッセイ的な短文がある。そこでのパズルに言及する文からの連想からか、後半に双子のエピソードが語られる。


 その後半の双子に関する寓話は、エッセイ文からエピソード段落への飛びがいきなり過ぎて、読み手は意外性に圧倒されてしまう。


主人公の双子の女の子の発見効果と、読み手の唐突な理解とがリンクしながから、何だ?と読み手は思う。


これって、エピソードの始まり効果を繰り返せるメリットがある。

章の冒頭の、異和感の語りが前まとめとして、主題的なものになっているが、語り手の語りがいきなり主人公の僕へ移行するから、ジェットコースターみたいだ。

断片を繋げる意図というより、異時間・異世界が連続しているようだ。


おそらくは、パズルと双子の連想から着想して、

その双子と主人公が寝た「状況」から始めるから読み手は何だ? と読ませるのか?。


いつもストーリーではなく、「状況」から始めてるから、上手く繋がるのか。

作家は書き出せば、自然とまとめようとするからね。