続・三田文学会の講演会 吉村萬壱さんと堂垣園江さん(H30年講演会④) | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

すみません、昨日の続きで、三田文学会の講演会内容です。

 
吉村萬壱さんと、堂垣園江さんのお二人のバトルは非常に熱くて、
予定時間を越して、20:16あたりまで行われました。
 
昨日は上手く消化できていません、と書きましたが、
今、なんとなくですが、自分なりに落とし所を見つけることが出来ました。
 
お二人に感じた違和感、
その正体は、小説を「書けば書ける主義」なんですね。
特に、堂垣さんにその傾向が強く、
私は何の努力もせず書いたら、20代初めぐらいで雑誌「群像」の二次選考まで行って、
次に書いたら、群像新人賞を貰えたから、の上から目線発言ばかりなんですよね。
 
つまり、「書けば書ける主義」は、才能天授主義の変型なんです。
口では誰もが小説を一つは書けると言いながら、じゃあ、それが本当なのか、というとそうじゃない。
素人がいきなり書こうとしたら、やっぱり書けないじゃん、オレには才能ないな、で終わりますよ。
大昔の僕のように。
 
事実、お二人ともプロになってから書けない時期がある程度の期間は長くあったことを認めております。
堂垣さん自身も、「何の努力もせず、作家になると、なってから苦労します」とぼそりと仰っておられます。
 
この「書けない」とはプロ作家の場合は書いても編集者からダメ出しされて、
雑誌に載らないことや、雑誌に運良く載っても、本にしてもらえないことを、恐らく意味しているのかと推測しています。
 
奇怪作品『クチュクチュバーン』でデビューした吉村さんの、
「圧倒的にオリジナルの作品は、自分でも、これは小説じゃないと思った。理解できなかった」は、凄く卓見です。
文字通り、自分の幼少期の地下室閉じ込め体験とかを基にした、才能だけで書けた作品になるのでしょうか。
 
一方、
堂垣さんは、作品を読んでないので、あまり客観的ではない推論ですが、
ご本人の、自分は作家として、もう30年近いキャリアがあるプロ中のプロなのだというプライドから来るご発言とは違って、凄く低迷されてます。
 
この2015年に、織田作之助賞( アマチュア公募作品に与えられる青春賞とは違って、プロ作家に与えられるもの )を受賞した『 浪華古本屋騒動記 』より以前は12年ほど目立った活動は公的にはないんです。
 
若い頃の感性だけに頼った創作をされてたんだろうな、と思いました。
( 間違ってるかも知れません。勝手な憶測ですから。)
 
小説は「書けば書ける」ものではないと思います。
この手の才能天授主義が間違った誤解を、読者にも作家本人にも不幸に作用しているのじゃないかと思います。
 
現代詩なら、短いので、「書けば書ける主義」で何とかなる部分は強いと思います。
その分、自らの感性の鋭さ、ものを観る見方が問われますけどね。
 
なんか、堂垣さんに酷い書き方になりましたが、
「小説は憑依して、書くものだから、ジャーナリストの見方で、途中修正出来ない。
    例えるなら、水彩画みたいなもので、下描きを終えて、色を塗る直前なら修正出来ますけど」などは卓見だと思います。
 
ともあれ、お二人の会話バトルは勉強になりました。
プロ作家ならではの、創作感覚や考え方の方向性は充分、感じ取りました。
 
いろいろ注文つけましたが、傾聴できて、よかったです。
貴重な財産として、これから先、僕の発達段階に合わせて、何度か思い出しては活用させていただきます。
ありがとうございました。
 
【追記】
そうか、と気づきました。
お二人の創作への姿勢、この間、本をここで紹介した将棋の佐藤天彦名人とは、全く違うものなのですね。
 
佐藤名人は、才能や閃きを産む環境自体を作ろうと努力しておられ、
その上で、土壇場の閃きで勝負することの大切さを説きました。
 
根本的に違うんですよ。
姿勢が。
僕は佐藤名人側に立ちたいです。