昨日は、月一回の詩の教室でした。
終わってから忘年会となり、教室の方々と様々な話をしました。
いつもはあまり突っ込んだ話が出来ないので、へぇーと感心することしきり。
僕の友人の一人で、この教室とは無縁な人が、別の授賞式(大和郡山市)で一緒だったよと意外な友達の輪がつながりがあって、びっくりでした。
ふだん文学の話って、しないので、とても有意義な三時間でした。
話すことで、自分の考えていることもより明確になり、
意外な質問に自分の中にある新しい感覚を意識したり発見できますよね。
教室でも飲み会の席でも、純文学系小説を書いて応募します、と公言しまくってしまったので、
これは意地でも完成させて、投稿しないといけないと決意を新たにしました。
お陰で、京都から帰る阪急電車の中でもつり革を片手にしがみつきながら、小説をポメラで2時間打ちまくり、71枚に到達しました。
それを1行30字×40行のすばる提出用の設定になおすと75枚ほどになってました。
あと、詩を書く皆さん、やはり現在も小説を書いていたり、書こうとされた経験があるそうで、
これだけ、詩なら書ける人もなかなか書けない小説の、難しさや特殊さを感じました。
ちょうど昨日の教室でも、原稿用紙二枚にびっちり手書き文字を書いて、散文詩を出された方がいて、
とても内容がいい、事実に基づいたものだったのですが、
先生から
「これはとても上質でいいエッセイなんですが、散文詩になりきれていない。
散文詩なら、どこか謎の表現、読み手によって如何様にも解釈の余地がある「ブレた」部分が欲しい」と物言いがつけられました。
僕も、詩にはどこか読み手にまかせる「飛躍」や説明しきれない「異化」表現があるべきだが持論なので、
同様に感じました。
確かに、その方は全部説明されてしまってるんですね。
僕も意見として、アドバイスをしました。
また同時に、自分自身の悪癖、職業柄、ついなんでも説明しきってしまう僕のダメ性癖を鑑みました。
いい小説やいいエッセイには、かならず読み手まかせ表現がありますからね。