バドミントンの話で始まります。
高校生たちの試合を観ていると、見事にシャトルが来るのを「待って」打つ。
その待ち時間の半分でも前へ出れば、勢いのある返球になり、相手の反応を逆に遅らせて、
このラリーの勝利をつかめるのに、と歯がゆくて仕方ない。
思わず、大声でアドバイスをして、役員の方から注意を受けてしまう。
すみません!
結局、その場しのぎの返球・対応しかできないと全く勝てない。
きっと彼女たちは、360度どこにシャトルが返ってくるか、わからないままコートに立っている。
本当は、相手が打つ前に、そのシャトルに追いつけないから、相手の返球はロブかへピンしかないはずの予測が立てられない。
予測が立てば、それを防ぐべく前衛位置に移動すればいいという次の判断が出来るのに。
「見える人」と「見えない人」がいる。
これって、たぶんスポーツに限った話じゃなくて、どの分野でも起こりうることのはず。
小説創作でも、目の前のシーンしか書けない。
付け焼き刃の雰囲気書きを無限に繰り返しても仕方がない。
そこに進歩はない。
課題の観点として示されて、昨日書いた、以下の疑問点。
・どのような方向性へ持って行ったか。
・今回の結末でどのような価値が加えられたか。
・どのような小説に仕上げたいか。
・どんな根拠で、こうあるべきだと思ったか。
・経験すべきドラマの質はどうあるべきで、どんな読者層と響き合うことになるのか。
これらって、おそらくはバドミントンにおける試合の流れ、今のラリーの到達点と同じだろうと思う。
さあ、考えろ、感じろ。
それぞれの人物の役割が見えるか、見えないか。
根本的にステージを上げるのは、ここなんだろうと分かっているのに、躊躇している。
根源的な未知な行動を、人は恐れ躊躇するものなんだろうね。