大袈裟にいえば、そうして来ました。
基本、日本の小説作法、いわゆる文章読本の類は名著とされるものは、
谷崎潤一郎や三島由紀夫のものはもちろんアマゾンで人気のものも、すべてよんだと言っていいでしょう。
大御所作家の純文学系の文章読本は、それこそ高校大学時代の10代で読み、
以来、何度か読み直しても、ほとんど役立たない代物でした。
自分たちがいかに名文家であるかの文壇の内輪での自慢話本に過ぎません。
最も役立ったのは、芥川賞作家の三田誠広さんのものと、エンタメ系の柏田道夫さんのお二人のもの。
後は、京都造形大学で学んだ講義やその他の作家の講演会の聞きかじりに、
自分が創作実践してきた経験が大事でした。
結局、貢献度は、後者の実践経験の方が今は比重高く、執筆という「登山」には役立ちます。
前者の三田誠広さん等のものも、「登山口」を見つけたり、途中で「怪我」しないのには役立つかな、という程度です。
今は作家の作品を読むと、
その作家の書き方だけでなく、
同時に他の作家ならこう書くよな、というのが普通に「見えます」。
言わば、太宰治の小説を読んでいて、気に入った箇所が出て来たら、
そこで、ここを芥川龍之介ならきっとこう書くよな、とか、
志賀直哉なら、たぶんこう書かず、別方向から攻めるよな、とか「見える」んです。
「見えないものが見える」
これって、僕は絵でもバドミントンでもできます。
絵の世界では、よく「見たまま描きなさい」というアドバイスがなされます。
これって、実は非常に奥の深い言葉です。
確実に、小磯良平が「見える」世界と、僕の世界は違います。
僕個人でも、デッサンを描こう( 光と影の立体世界 )、油彩を描こう( 色を中心とした省略と強調世界 )、モードによって、
「見える世界」は違います。
それは通常の、電車・家・山・人などを認知している生活世界とは別物ですね。
ああ、そうか。
僕の小説世界の風景描写は、どこかで絵画的視覚を、線と色を言葉に転換していますか。
けど、今、イメージしているものをまだまだ完全にそのまま文章化したことありませんが。
小説世界では、「時間」を見ます。
登場人物の「心」を見ます。
人と人の「距離」「関係」を見ます。
ああ、書いて改めて分かります。
4年前、5年前に見えなかったものって、それですね。
小説という装置をまだまだ僕は分かっていませんか。
まだまだ、見ます。
【 追記 】
今の研究対象作品。
プルーストの「失われた時を求めて」の時間描写、
柴崎友香さんの作品の当たり前さの秘密、
恩田陸作品のまとめ方・着想、
堀辰雄の秘密。
うーむ、時代も傾向もばらばら。
でも、これだからこそ、化学反応が起きるんですよね。