一人の職人(私)がオールハンドメイドで、ひと月に製作できて10点の、ささやかなジュエリーブランド

「アトリエことら」を立ち上げてから、もう7年の年月が経ちました。

 

6年間でどれだけのお客様を笑顔にできたのか、幸せになっていただけたのか、
毎年この時期は、オーダー表を振り返りながらお客様のお顔を思い浮かべています。

 

私がジュエリーデザイナーになろうと思ったきっかけは、

死を覚悟した瞬間に「まだやり残したことがある」と気づいたからでした。

 

26歳で帰国し、仕事が楽しすぎて朝も夜も365日24時間体制で勤務したり起業したりしていた頃
子宮頸がんクラスⅢ(高度異形成)の診断を受けました。

 

「私、まだ子どもを産んでいないどころか、結婚もしていないんだけど…」と己の人生を振り返り

すこし人生を生き急ぐペースを落とそうと思いました。


「もしも、時間もお金も関係なく、好きなことができたら何をするだろう」と考えた時に思い浮かんだのが、

世界で一番大切なおばあちゃんとの思い出でした。

 

祖母は新聞に挟まっている宝石のチラシを取っておいてくれて、一緒に切り抜いてはよく指輪遊びをしました。

 

「大人になったら宝石屋さんになって、おばあちゃんには沢山の宝石をあげるね」と約束していたのに

実の親以上に大切に育ててもらい、留学するまで散々応援してもらったのに、

帰国直前に祖母はこの世を去り、何の恩返しもしないうちに一生会う機会を失ってしまいました。

 

当時「死ぬか、子宮を失うか、どちらかなのかな」とぼんやり考えた時に、

5歳の頃の私が「まだやり残したことがあるよ」と教えてくれたのです。

 

そこからはものすごいスピードで、宝飾専門の派遣会社へ履歴書を送り、

ジュエリーに特化した研修プログラムや百貨店での研修を受講させていただき

修行のつもりで、3年間で100ブランドを越える売り場に立たせていただきました。

 

どの売り場に携わらせていただいても、ブランドヒストリーやデザインの哲学など、どれだけ学んでも飽きる事がなく

最後は世界で一番の真珠屋さんと、ダイヤモンド屋さんの2社で
ブライダルリングのアテンドのお仕事をさせていただき

ごく短期間の出来事ではありますが、銀座店で一番の売上を上げることが叶いました。

 

その頃には都内ほぼ全ての百貨店勤務を制覇し終わり、

「販売員としては学び尽したし、本腰を入れてジュエリーデザイナーの先生に弟子入りしよう」と決意したのです。

 

書籍「日本のトップジュエラー」に掲載されるような、数々の賞を総なめにした素晴らしい師との奇跡の出会いがありました。

次期人間国宝になってしまうのではないかと思わせる、唯一無二の日本を代表するジュエリーの美しさに感銘を受け

三顧の礼で師に弟子入りさせていただき、ジュエリーデザイン・彫金・販売・人脈作りの全てを叩き込んでいただきました。

今思えば、公私共に尊敬する師との出会いは、私の人生でベスト3に入る僥倖でした。

 

この時期、日中は百貨店販売員・夜は自身がオーナーセラピストを勤めるエステサロンの経営と2足のわらじでしたが

どちらも好きすぎて仕事にするしかなかったので、空いた時間に宝石学の勉強や新しい資格を取得する事は全く苦ではありませんでした。

有名なブランド様とタイアップして、本物の宝石を使ったエステ「ジュエリースパ」を始めたのもこの頃でした。

 

エステの後の真珠のような艶肌を美しく飾るペンダント

本物のレースを使った砂糖菓子のような銀細工のリング

ヒプノセラピーと瞑想のための三日月の水晶

女性性の豊穣を寿ぐ満月のルチルクォーツ

セラピストのためのお守りジュエリー

内側からも美しさを引き出す経絡ピアス

そして、宝石でできた香水瓶
 

他の事をしていても、頭の中では24時間宝石について考えているので

新しいデザインやシリーズの着想を夢に見るようになりました。

ジュエリーデザイナーとして、沢山のコミュニケーションジュエリーを生み出し続けることができて、

それを身に着けてくださるお客様とお目にかかることができて、とても、とても幸せな人生です。

 

「私、宝石商になったよ。世界中のどの宝石でも好きなものをプレゼントしてあげる!」 

と祖母に言いたくて、でももう誰に言えばいいのか分からなくて、天国でのお土産話になるかなと

ジュエリーサロン「アトリエことら」を始めました。