◆前回のあらすじ◆
前回——10年間「kuya」と呼ばれてきた男が、来日2日目のGから「chan」と呼ばれた。
ドキッとした自分を、40男は今日ここで初めて申告している。
【店の前のトレーナー】
そこから、毎日連絡を取るようになった。
内容は、たわいもないことばかりである。
ごはん、仕事、眠い、寒い。
恋の駆け引きも営業の匂いもない、ただの日常の交換。
それが、心地よかった。
春先の日本は、フィリピン育ちには寒い。
ある冷えた日、Gからメッセージが来た。
「寒いです。
ジャケットない。
貸してください」
来日してすぐ日本の春に放り込まれた子は、羽織るものを持っていなかった。
正直に書く。
私は疑った。
ああ、これは「店に来て」の口実だな、と。
ジャケットを届けさせて、そのまま一杯、が定石だろうと。
10年の場数は、男をこういう計算にだけ長けさせる。
違った。
Gはただ、貸してほしいだけだった。
その日の夕方、私はトレーナーと羽織るものを持って、店の前に行った。
店には入らなかった。
誰にも会わずに、扉の脇にそっと置いて、置いた場所の写真を撮って、Gに送って、帰った。
「ありがとう!!!」
驚くほど、喜んでくれた。
あの晩、Gから返ってきたスタンプと絵文字の数を、私は数えていない。
数えなくても、多かった。
夜の店の前に、男が服だけ置いて、写真だけ送って、そのまま帰る。
傍から見ればただの不審者である。
でも、Gにとっては、たぶん、そうではなかった。
あの夜が分岐点だったと思う。
Zとの思い出は、駐車場のキスだった。
Aとの思い出は、同伴のレシートだった。
どれも店のシステムの中にあった。
Gとの最初の思い出は、店の前に置いた一枚のトレーナーである。
料金の発生しない場所から始まった恋は、これが初めてだった。
そのころから、思っていた。
今までのことは、違う、と。
◆次回予告◆
第4話「風除室のキス」——来日したばかりのGが、ずっと隣にいてくれた夜。
テキーラで見事に泥酔したのは、今度はGの方だった。
この物語は全4部の実録エッセイです。第3部の結末は、noteの有料記事で公開しています。
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