🔸英語コミュニケーション講座の元受講生・Josh  の海外体験談です🌍

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    タイのバンコクの公園で本を読んでいた。
途中で眠くなりベンチに横になって寝ているとセキュリティの人に起こされた。どうやらその公園のベンチでは寝てはいけないようだ。そんなことがあるかと寝起きでむしゃくしゃしていたところ、足元に野良の子猫が近づいてきて人に良く懐いているせいか恐れることなく自分の座っていたベンチに飛び乗って来た。
その横にとても優しいまなざしで子猫を見つめる男性がいた。軽く言葉を交わし、お互い旅人ということもあって今まで訪れた国、これから行く国そんな話でもり上がって二人でベンチに座って話し始めた。
結局2時間半くらいずっと話していたのだが彼は完璧なるヴィーガン、動物愛護主義者であり彼の考え方をひたすら聞いていた。子猫に対する人一倍優しい眼差しはこのためかと納得した。

オーストラリアの親友がインド人で彼はベジタリアン+卵を食べない人で彼とずっと一緒にいたのもあって食事制限のある人に会うのは初めてではなかったがその日会った彼は牛乳をはじめとする乳製品も一切口にしない厳密なヴィーガンだった。彼と話す前の自分のヴィーガンの人たちに対する認識は肉のおいしさを味わえないのはもったいないと思っていたが彼の話には納得させられえることが多く自分の考え方の転機ともなった。

彼と自分の一番の違いは、肉や乳製品がどのような過程で加工されているのかに関する知識だった。自分のインド人の親友の場合、卵、肉、魚を食べない理由は命あるものは人間と同じく神経を持ち、痛みを感じるからであった。だからヴィーガンの人が牛乳や乳製品をも避ける理由がわからなかった。しかし彼が言うには、市場に出回る大量のミルクを確保するため、一頭の牝牛から最大限のミルクを搾取する必要があり、人口受精をはじめとする自然の条理に反することを人為的な処理によって施しているという。これは自分の知らなかったことで衝撃を受けた。動物搾取というのは肉を食べることだけではないと思い知った。

彼はヴィーガンの考えを発信するフォロワー6000人のインスタグラマーだった。その彼のプロフィールにあるように彼の一貫した主張としては”Leave animals alone”ということだった。彼の主張には納得させられるものが多かった。例えば、自分がもし動物の立場であれば人間に食べてほしくないと思うだろうということ。植物は生でも食べられるものが多い一方で、肉などは加熱と言った何らかの処理を必要とする。つまり自然のまま口にできないということは、本来あるべき人間の食べ物ではないということ。人間も動物も同じく生き物であり、人間がより知的であることを理由に動物を私たちの都合で殺すことは誤りであり、差別行為である。過去に存在した性別や人種に基づく差別が社会で問題視され、正されたように、人間が動物に対して行う差別や虐待も誤りであり、未来においては反省されるべき行為となるであろうという。

 彼の主張は非常に説得力があった。しかし、最終的な私の個人的な見解としては、全員がヴィーガンになる必要はないということ。生命は食物連鎖の中に存在し、弱肉強食の世界であり、人間も例外ではない。発展した知性により、人間はそのピラミッドの頂点に君臨している。しかし人間と動物との違いは、他の生物の命を奪うその瞬間に立ち会っているかどうかということ。狩りをする動物は自分で獲物を殺して食べる一方で、人間の場合、動物の命を奪う際、現場に立ち会う人は比較的少数であり、肉の加工に携わる職業の方に限られる。人間も食物連鎖の中に存在するとして、ほかの動物と同様に考えるならばせめて食卓に並ぶ肉等がどのように処理されたのかきちんと理解する必要がある。

 その後訪れたベトナムでは、マーケットに行くと食用として殺される鶏が窮屈そうに詰められた小さなケージや、店の前で鶏や牛が捌かれているのを目にした。また売り場には牛の頭や豚の頭など目をそらしたくなるものもあった。しかしこれらの光景も自分の日々食べている鳥や牛の加工される過程であり、この光景を見て理解することは自分の義務であることのように感じ目に焼き付けた。その時に覚えた違和感としては、この過程をただ見ること、理解することでそれらの命を頂く資格はあるのかどうかということ。人間を動物と同じ食物連鎖の中にあるとして考えるのに自分自身で動物の命を奪うことができないというのは何とも矛盾している。自分は動物とは違う。命を自分で奪うことはできない。そしたら人間を食物連鎖の中にあるとして捉えることはできない。そうすると動物を食べるために殺すという行為を正当化することができない。進化の過程とともにあるといっても、遠い昔はそれを食べることは生きるために必要であった。しかし今の社会にはそれに代替する同じだけの栄養価を持つ植物系のものが存在し置き換えることは生きるためという観点からは可能である。
やはり人間のただのコントロールできていない欲望なのかな。しかし日本に帰ると肉にとても食欲がそそられる。おいしくいただくためにその過程からは目を背けるだけで、大好きな肉を食べることをやめたくない、この徹底できない自分を不甲斐なく感じる。



タイのストートの様子☆

英語コミュニケーション講座 
元受講生 Josh (広島大学)