今週も先週に続きオーストラリアのゴールドコーストに留学している 森表直哉さんからのメッセージです。ご本人の体験が赤裸々に描かれていて、心に響く記事です。

 

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留学初日、寮に到着した夜、とんでもないところに来てしまったと感じて号泣した。自分の思い描いた状況と現実がかけ離れていた。シドニー講座の現地学習にて待ち行く人誰に聞いても優しく丁寧に教えてくれ、オーストラリアの人はとてもやさしいから自分が寮に着いた時には歓迎してくれるまではいかなくとも、すれ違う時には声かけてくれるなど、彼ら側からなんらかのアクションを起こしてくれることを期待していた。しかし現実は違った。自分に目もくれない人が大半で、自分をチラ見しながらグループになって楽しそうに話している。自分の想像は完全な理想であり置かれた状況との違いがとても辛かった。

 

 

到着した日に撮った大学寮。期待を膨らましていたがこの数時間後に号泣。

 

その後何かしなければと思い立って、共有スペースの1つの部屋でボードゲームをしていた男女7人を見つけ強引だがその部屋に入って輪に入ることを試みた。その瞬間に感じた、「なんか来た。だれこの人?」といった雰囲気。口実のために購入したピザを持って、思いの他大きかったから一緒に食べようといったものの誰も自分のピザに手は付けないし、どんなに話しかけても微妙な反応。1人だけ自分の会話に付き合ってくれたのだが、30分くらい経ってからその彼からここからはプライベートだから、また今度おいでという感じで追い出された。何もしなければ自分に見向きもしてもらえないし、自分で少し勇気を出して中に入ろうとしてもうまくいかない、初日からこの2つを経験しどうすればよいかわからず生きていける心地がしなかった。

 

しかしこれらから学んだこと。人との距離の詰め方は国や文化を超えても一定の常識、踏むべきステップがあるこということ。当時の自分はとにかく話しかけたもの勝ち、やってみたもの勝ちという勢いのみで乗り切ろうとしていた。彼らがどういう集まりなのか、自分の入ったタイミングは適切だったかを考える必要があった。人の目を気にしたり相手の感情を過度にくみ取ろうとする必要はないが、思いやりや相手の状況を考慮する気づかいは日本を出ても大切なことだと感じた。今自分が同じ状況を体験するならば、彼らが自分がいることによってやりづらさを感じていることを早い段階から悟って、その日は長居せずその集まりがあるごと毎に少しずつ顔を出すというようにすると思う。外国にいるとしても、人を気遣ったり思いやったりする精神は大切にしていこうと思った。

 

人間関係を築いていく上で英語はあくまでコミュニケーションの手段にすぎず、1番に重視されるものではないと感じた。英語でスムースなコミュニケーションが取れず、言ってしまえばお荷物的存在である自分がオーストラリアで友達を作るにはどうしたらよいかということをずっと考えていたが、留学が始まって3か月目にしてやっと出た結論である。その人の人柄や優しさ積極性などといった人としての魅力は、言葉がなくても感じ取ることができる。自分が友達になるようために人に寄り添う時もあれば、自分が選択できる機会もあった。その時の自分のここから長く付き合っていきたいと思うか思わないかの基準は、日本にいる時と変わらず人間性や考え方の類似性であった。そのため周りと比べ英語が流暢でないからといって一歩下がってしまう必要はないということ。交流を続けていくうちに自分の良さに気付いて寄って来てくれる人はいる。自分の中の英語スイッチをオンにしてとりあえず交流の場を見つけ入ってみる。あとはいつも通りの自分を振る舞うので十分である。もちろん英語が堪能であればあるほど、自分の持っている知識も人に共有できより自分の魅力をアピールできる。他国の人に自分を売り出すには英語力だけでなく人間性、知識の構築と自分の考え方の確立も重要なものだと感じた。

 

 

 

アメリカからの留学生の家族が来たので一緒にバイロンベイに旅行。

 

2020年 英語コミュニケーション講座受講生

広島大学

Josh