前回の「アメリカ就職体験記 1」からの続きです。

 

 

いよいよ卒業後に3ヶ月で切れるビザの期限が迫っていた。当時アスレティックトレーナーの資格を取った人達はそのまま就職というより、大学院に行くのが主流。ミネソタの大学で一緒だった アメリカ人のクラスメイトで、同じく大学院に進学した仲間達も誰も就職が決まっていない状態だった。アメリカの大学は8月末から始まる所が多い、という事はそれまでに決まらないと「仕事がもらえない=日本へ帰国」まさにそんな時期だった。その頃は既に自分の好みというより手当たり次第応募していたのだが、もう一校電話面接をしてくれる所がやっと決まった。日本語でも電話が嫌いな私が英語で電話面接。

 

アメリカの履歴書は国籍や年齢、性別は記入しないし、写真もない。そういった事で人を差別してはいけないという所なんだと思う。電話面接では男性と女性と私の3人で面接をした。面接の内容は全く覚えていないが、女性の面接官がやたら私の名前を綺麗に発音した事は覚えている。 これが決まらなかったら日本へ帰国という白旗が上がりつつあった頃、なんと、二次面接へ進め た。 

 

二時面接はもちろん対面。大学の採用のルールだと思うが、一度も会わずに採用を決めるという事は禁止されているらしい。もちろん通常ならこちらが大学へ出向いて面接なはずなのだが...... 何故か当時私が住んでいたラスベガスへ面接に来てくれるという話になった。学生だった私にとっ てはあちらが来てくれるのは好都合。

 

そして、面接会場に指定されたのはピラミッド型をしたホテルのカジノ。ラスベガスなので、大きなホテルには全てカジノがついている。そのカジノを指定されたのだ。「え?カジノ??」と思っ たが、数日後どきどきしながらいざ面接へ。

 

面接官は背の高い男性。日本だと面接官のイメージはスーツを着て...という感じだろうが、Tシャツに短パンだった記憶がある。しかも、会った早々先に面接官の奥さんを紹介される。大学への就職面接にしてはかなり拍子抜けだ。奥さんとは挨拶だけ済ませて、2人で早速本題へ。面接の内容は覚えていないが、すごく簡単なものだった。一応他にも候補者がいる事を言われていたの で、「いつから働けますか?」と言う質問には「4日あれば車で引っ越せるので、4日ください」 と伝えた事だけは覚えている。その面接はそんな感じであっさり終了。面接官の服装がラフだっ たと書いたが、私の服装も面接官に負けず劣らず...実はサンダルを履いて行っていた。

 

「面接結果は数日後に大学の人事から連絡があります。」と面接官に言われ、カジノを後にした。 時間にして10分も話をしてない記憶がある。(あくまで記憶なので、もうちょっと長かったのかも)この拍子抜けの面接の後、はっきりとしない、明日でも明後日もないし、明後日かもしれない”数日後”が長く感じた。当時既に携帯電話はあったが、携帯電話の前で落ち着かず待つ日々を数 日過ごした。文字通り、電話の前で座って待つ事もした。

 

既に大半の大学の秋学期が始まっていたので、これを逃したら日本へ帰国するしかない。焦る気持ちでいっぱいだったが、数日後大学の人事から面接合格の連絡をもらった。そこから直ぐに支度をし、車に乗せられるだけの荷物を乗せて、当時住んでいた西側のラスベガスから、東側のニューヨーク州へ私の3日半アメリカ横断の旅が始まった。

 

ひたすら車を走らせる事1日平均12時間、4200kmの引越し。朝出発して、夜になって疲れてきたなと思ったら泊まる場所を探して泊まる。ネバダ州(ラスベガス)を出発し、アリゾナ州、 ニューメキシコ州、テキサス州、オクラホマ州、ミズーリ州、イリノイ州、オハイオ州、ペンシル バニア州を超えて到着地のニューヨーク州(ユーティカ)。4日間運転長時間の繰り返して無事に到着。おかげで長距離運転にも慣れた。

到着して次の日からニューヨーク州に60校以上キャンパスがあるニューヨーク州立大学の一つで3年間働く事になる。

 

後日談として、電話面接時に女性面接官がやたら私の名前を綺麗に発音していたと書いたが、こ れにはカラクリがあった。実はこの面接官(私の直属のボス)の義妹が山口県出身で、義妹から 私の名前をどう発音するのか教えてもらっていたようだ。私の就職した場所はニューヨーク州で もかなり田舎で、人口6万人程度。そんな場所で山口県にゆかりがある人を見つけるとは思わなかったが、これが縁で就職が決まったと私は思っている。

 

2012 3年間働いた職場のスタッフから送別でもらった写真パネル

 

 

2010 働いていた大学発行の冊子に載った記事

 

英語コミュニケーション講座 山口大学 担当講師

Dakota