大好きだった幼稚園の先生が結婚を機に、旦那様の転勤でアメリカへ引っ越され、クリスマスカードが届くようになったことが英語との最初の出会いだった。

 

ひらがな、カタカナが書けるようになっていた5歳の私は、母が代筆してくれる封筒の宛名も自分で書きたいと、近所に住む日本航空客室乗務員のお姉さんに直訴し、英語を教えてもらう約束を取り付けるという、とんでもなく行動力のある子どもだった。そして月に一度か二度、彼女のお休みの週末にアルファベットの書き方などを教えてもらう日々は、彼女が結婚し、実家を離れるまで2年近く続いた。アルファベットの大文字と小文字、筆記体まで教えてもらい、すっかり満足してしまった小学1年生の私は、封筒の宛名以外に使い道の全く無い英語への学習意欲も薄れ、最後はお姉さんが毎回用意してくれているお菓子を目当てに通っていた。母によるとそのお姉さんは実は国内線の乗務で英語がそれほど得意ではなく、早々にアルファベットをマスターした幼稚園児がいろいろ教えてほしいと言い出すのではないかと内心ハラハラしていたそうだ。

 

その後、幼稚園の元先生も帰国され、クリスマスカードは年賀状に代わったため、アルファベットを書くことすらない小学生時代を過ごした。中学時代は先生に恵まれたこともあり、英語の成績はまずまずだったが、高校1年時の英文法の授業で英語への興味を失い、大学受験では苦戦する原因となった。被服科への進学を希望していたが、家族の反対もあり、英文科へ進学が決まったものの、興味も無く学びたいことも無い中、大学生活がスタートする直前の春休みに3歳上の従兄のホームステイ体験に強く引き付けられた。

 

当初、英語が全く出来ない私を心配し反対していた家族と約3ヶ月間交渉を続け、大学一年の夏休みのアメリカのカリフォルニア行きの了承を取り付けたのが6月だった。その時点で、大学生協のホームステイ募集は締め切られており、従兄が利用した旅行会社も大阪発のホームステイツアーは満員で、結局、成田発のツアーを予約し、出発前日に大阪から夜行バスで東京へ向かう強行軍で念願のアメリカへと旅立った。

 

ホストファミリーは、ご夫婦とプードル2匹。お母さんはイギリス人、お父さんは生粋のアメリカ人だった。看護師のお母さんは私のめちゃくちゃな英語を一生懸命に理解しようとし、またゆっくり話してくれたが、警察官だったお父さんは早口で俗語を多用するので、最初の2週間は、お母さんの通訳無しでお父さんとの会話は全く成り立たなかった。それでも、心は通じ合うもので、1ヶ月のホームステイ後半は、単語だけで会話が成立する不思議な関係を築くことが出来た。

 

帰国後も連絡が途絶えることはなく、冬休みにアルバイトで貯めたお金で航空券を買い、春休みにまたそのお宅に伺った。共働きのため、犬とお留守番する日々で、近所に住むおばあちゃん(お母さんのお母さん)には毎日のように「うちに滞在していたら、もっと英語が話せるようにしてあげるのに」と言われるほど、英会話は上達しなかったが、英語は単なるコミュニケーションツールであり、文法がめちゃくちゃでも通じるということを学ぶ貴重な機会となった。お父さんもお母さんも数年前に亡くなったが、現在もお母さんの兄夫婦とは毎年クリスマスカードを送り合い、年に数回のメール連絡が続いている。

 

英語に対して苦手意識しか無かった10代の私は、最初の就職先が外資系で海外へ出るなんてことはもちろん、将来、英語教育に携わるなんてことは想像だにしていなかった。でも英語との付き合い方を学ぶことが出来、アメリカでのホームステイ体験を抜きに自分の人生を語れないほど素晴らしく価値ある様々な出会いをさせてもらったことに、今では心から感謝している。

 

カリフォルニア州サクラメント周辺でホームステイ仲間と観光中

 

☆高知大学・奈良大学グループ(奈良女子大・奈良教育大等) 担当講師
Adele