ああ、もう、3.11の日だね。
あれから9年、もう9年、まだ9年。
いろいろあった。
震災2週間前に母が亡くなり、
実家へ帰って数日過ごし、仙台に戻った数日後、まだ悲しみが癒えぬ中、3月11日を迎えた。
あの日の朝は(以前も書いた記憶あるけど)鮮明に覚えていて、ヨガスタジオでマキちゃんと2人でヨガをし(マキちゃんはヨガの先生)終わった後、長く話し込んでいたのだった。
深い話で、生きること、死んでいくこと、其々の死生観を語り合い、手放すことの究極は肉体の死なのかもね、等、静かなスタジオのストーブの前で。
窓の外は雪が舞い、4階の窓から国道の流れていく多くの車を見ながら、ここから見えるのは車の流れだけど、ひとつひとつの車の中には人が居て、みんな生きていて何処かに行くんだなあ。と、
何故か寂しく感じてた。予感がしていたのかもしれない。
昼過ぎていて(多分14時頃)自宅に帰って、息子の治療院に行く準備をしている最中に、大震災が来たのだった。
カタカタカタカタ揺れ始めた時にヤバい気がして、90センチの大きな水槽が倒れないように、重いテーブルが水槽を支えてくれるように移動し、
自分は2つの60センチの水槽が倒れないように、両手で押さえた瞬間、
物凄い揺れになった。
水槽の水は半分以上溢れ、
洗面所にいた長男(車椅子)の所へ助けに行けなくて、
「大丈夫か?ブレーキ掛けて手摺りに捕まっていなさい!」と声を掛け、長男も「大丈夫!」と答え、
揺れに耐えてたけど、
尋常じゃない揺れは、収まるどころか更に酷くなる感じ。
途中少し収まった所でコンセントを抜き、また揺れ始めたので水槽を押さえ続けて、余りにも激しく長く揺れ続くので、段々腹が立ってきて、
地震に向かって「いい加減にしろ!」とか「止みなさい!!」とか、叫び続けてた。(後で長男に「ママうるさかった」とか言われた。💦
外からはビンビンと不気味な軋みのような音がして、足の裏の下はローラーで掻き回されているようだった。
もう永遠に揺れは治らないのだろうかと思うくらい長かった。
ようやく揺れが止んだ時は、水浸しの床。
自分も濡れた筈だが記憶がない。多分着替えたはずで。
記憶がバラバラに飛んでいて、断片しか思い出せないのだが、取り敢えず床の水浸しをどうにかしないと夜眠れないと思って、家にあるタオルケットやバスタオルあるだけ使って床を拭いてた。
次男が帰ってきて一緒に作業した。
次男はお兄ちゃんのことが心配で走って帰ってきたらしい。
2人に留守を頼んで、コンビニに電池を買いに行ったが停電でシャッターを閉める所で何も買えず、スーパーも同じで、
困ったな。。と思って歩いてたら、近所の時計屋さんのおじさん(次男の同級生のお父さん)が落ちたガラス等を掃いていて、
大丈夫だったですか?と声を掛け合い、
そうだ!「乾電池無いですか?」と聞いたら、「あるよ!お金はいいから持っていきな」と言ってくれて、懐中電灯に使う6つを取り敢えず借りる感じで頂き、自宅に帰った。
マンションの上階の人たちは皆降りて来ていて、車の中に避難してた。
ウチはトイレの棚のものが落ちたのと、テレビが倒れて割れただけで、不思議なことに、玄関に飾ってあった花瓶は倒れてなくて花も何でもなくそのままだった。その花は大切な友人が、母の喪のためにくださった白い花たちだった。
暗くなる前に床を拭き上げ、
ペットボトルは2リットルが5本、これでどれくらい持つかな。。と、一瞬思ったのを覚えてる。
石油ストーブの火で雑炊を作り、お爺ちゃんの無事を確認し、夜になって大渋滞の中何時間も掛けてダンナが帰ってきたんだけど、
帰ってきた安心感だけ覚えていて、それが何時だったのか覚えてない。
大変なことが起きたのは分かっているが、頭がボーっとしたままなので、そこから数日間の記憶も断片的でしかない。
停電だったのと、ラジオが無かったので情報が無くて、電話も繋がりにくく、姉や親戚や友だちからの電話も夜になってとか、翌日とかに繋がったのだったっけか。
時系列が混乱している。
車の電源の変換器を持っていたので、それを使って携帯は充電出来た。
唯一の情報源は其処だけだったけど、携帯から情報を拾う気力とかも失せていたように思う。
津波が来て多くの人が亡くなった、沿岸部が大変なことになったのを知ったのは2日目か3日目だったように思う。
と、思い出すだけでもこれくらいのボリュームなんだな。と、書いていておもうけど、
あれから9年か。。
あの時感じた恐怖感や諸々の感情は何処に行ったのだろう。ヒト(生き物)は命の危険に晒されると、フリーズするか、戦うか、と言うのもわかる気がする。
頭の中が真っ白になって何も感じなくなるんだと思う。それは多分自分を守るための防衛機能が働くんだろうな。
そういえば、長男を産んだ時も、私は死にかけているんだけど、その時の記憶も有るには有るが、ものすごく曖昧な記憶で、夢と現実の境が無くて、
見えないものが見えたり、危篤の長男は別の病院に搬送されて居ない筈なのに、私自身も歩けなかった筈なのに、赤ちゃんを抱っこして窓から外を見ている記憶が鮮明にあったりして、ありえない現実が実際にあった記憶として脳に保存されてる。
いま、この場所に生きていて、
周りのみんなも震災を其々体験しているけれど、日常生活では話題に上ることは殆ど無い。
セッションでその話題を話す人も居ない。
それくらい、生きる者にとって、キャパ超えした出来事だったんだろう。
そういえば、父も母も義父も義母も戦争を体験した世代だが、戦争の話を聴かせてくれたのは父だけだった。残りの3人からは聞いた事が無い。
その父も、母の後を追うように、2013年の3月9日に他界した。
3月10日は、父の命日と、東日本大震災にサンドイッチされた日。
7年前、3月11日日の2時46分は、故郷の火葬場で父が煙になって空に昇っていく時間だった。
震災の記憶の備忘録を書こうとして、また長文になったけど、真面目に書き出すと多分本になるくらいかもなー。って思う。(書かないけど)
其々が
其々のストーリーの中で
乗り越えてきた3月11日。
命ある今を大切に生きよう。
混乱に巻き込まれず、
根を張ってしっかり生きることが出来ますように。
いつも読んでくださりありがとうございます。
内出京子🌸