いつから
勝ち負けというものを
意識するようになったのだろう。
人間関係の中で、
勝つこと、負けること
または、
勝ち組、負け組、とか言う言葉。
勝負って勝ち負けって書く。
スポーツやコンテストならわかる。
ルールがあって、基準が定められていて
審査する方も居て、
フェアな場所で、相手を認識して勝負する。
スポーツの場合なら、勝負の後に
共に戦った相手と握手し、讃えあう。
それとは違う、
日常生活の中で使われる勝ち負けは
どこからか来るのかな、と、思った。
わたしは個人的には
勝ち組とか、負け組とか、
そういう言葉は好きではない。
誰かが誰かより優れているとか
誰かより誰かが劣っているとか
それに囚われ、それにエネルギーを費やし
悔しいとか、悲しいとか、
怒ったり、泣いたり。
それは何の役に立つんだろう。
何かの役に立つとすれば、
勝ち負けや、苛立ちや、悔しさに
囚われていることに気付くことで
そこを抜け出す事が出来るという事かも?しれない。
事象が起こらないと、
気付きは生まれない。
誰かに対して、
或いは、
特定の個人より大きな何かに対して
負の感情が出てきた時が
大きな視点では、チャンスでもある。
腹が立つ。
どうして腹が立っているのか?
その思いは自分にとって心地よいものだろうか?
NOであるならば
心地悪さにエネルギーを使うのは
とても疲れるよね。
怒りや悲しみを感じるのは
悪い事じゃない。
感情は感じて良いの。
感じることで流すことが出来るようになる。
流すことが出来ないと
それを持ち続ける事が
疲弊の原因になっている事も ままある。
良い、悪い、ではない 世界へ。
勝ち組、負け組 が、無い 世界へ。
どんな世界でも人は生きていく。
どんな所で 何を感じで生きようとも
自由で、
それはその人だけの手に渡されている
沢山の鍵から選ぶ事が出来る。
ずっと、
悔しさを引きずる生き方が あってもいいだろうし、
それも自分で選べる。
ただ、
苦しいのであれば、
今の生き方が、自分を苦しめているのであれば
〜せねばならぬ、と、何かに 囚われてないか
確認してみるのも良いかもしれない。
そして、
それを手放す選択も
手の中に有る、ということを
知ることに気がつくことが出来る
そういう恵みもある。
苦しいからこそ、光に向かえる。
悲しいからこそ、誰かの気持ちを汲める。
楽に生きれる人生は無くて
誰もが、多かれ少なかれ何かを背負い
みんな、一生懸命生きている。
しあわせになれるか?とか
そういうものは個人の価値観ひとつ。
そもそもしあわせの雛形など無い。
その人がしあわせだと思えば
どんな場所でも幸せであるだろうし、
どんなに恵まれているように見えても
不幸だと思えばその時点で幸は消えてしまう。
悔しさをチャンスに変える。
悔しさの裏には希望があるはずだから。
希望の光が
どんなに見つけづらくても、時間が掛かっても、
悔しさや悲しみの奥には
こうだったら良いのに!という希望の光があるのでは?
それを感じることが出来たなら
それに向かって漕ぎ出すだけ。
それに向かって伸びるだけ。
植物達が
古くなった枝葉を
新しい季節を迎えるために落とすように
古いものは落ちるに任せる。
落ちた枝葉は地面で朽ちて土に還り
養分となっていく。
植物は、それを吸収し
更に育ち、花をつけ実を結ぶ。
(とか、いっぱい書いたけど、
ひとりで解決するには限界あると思うから
クルシイときは身近の専門家、心理士さんや、研鑽を積んだカウンセラーさんの所に行って話を聞いてもらう事を強くお勧めします。
私も何人かの専門家に話を聞いてもらってようやくここまで這い上がって来れた経験がありました。)
紫も白も
宝石のような花だといつも思う。
読んでくださりありがとうございます。
